石榴の月~愛され求められ奪われて~
訊かれたくない、話したくないと思いなら、ついそう言ってしまう。我ながら自虐な思考回路だと思わずにはいられなかった。「何も言わなくて良い。―辛かったろう、い目に遭ったな。俺はまた、お前を守ってれなかった。許してくれ」
源治の言葉に、お民は泣きながら首を振た。
「何で、お前さんが謝るのよ? 謝るのはの方じゃない。こんなになって、それでもだお前さんの許にのこのこ帰ってくるなて、よくそんな汚れた身体で帰ってくるなて、何で私を責めないの?」
「止せ」
嘉門の言うとおりだった。お民の身体ははり、嘉門と過ごした幾つもの夜を忘れていなかった。久しぶりに昨夜、嘉門に抱かたお民は、烈しい愛撫に幾度も身をくねらせ歓喜の声を上げたのだ。
それが、源治への裏切りでなくて、何とえよう。
「私はもう駄目。身体だけじゃなくて、心で汚れちまった。お前さんだって、こんな女良い加減に愛想が尽きるでしょう」
自嘲するかのようなお民の言葉は、源治怒声によってかき消された。
「止さないか!」
「だって、お前さん。私、お前さんに合わる顔がなくて。でも、諦めが悪いから、ま帰ってきちゃった。どうしても、お前さん顔がもう一度見たかったから、せめて出てくなら、大好きな男の顔を見てから、行きかったから」
「出て行かせるものか。お前は俺の女房だぞ 俺以外の男の、どこに行くっていうんだよ」「こんな私でも、お前さんはまだ女房だとってくれるの?」
お民の眼から大粒の涙が溢れ落ちた。
「当たり前じゃねえか。お前は俺にとって一生にただ一人の女だからな」
「―嬉しい」
お民は源治の胸に縋りつく。
「前にも言ったろう? たとえ、何があっも、お前はお前だ。俺は、そのままの今の前が好きなんだ」
そういえば、去年の秋、嘉門の屋敷からを取って帰されてきたときも、源治は同じとを言った。
―俺は、そのままの、今のお前が好きなんだ何があったとしても、お前はお前で、変わことはねえよ。
「だから、もう何も余計なことは考えるなお前の居場所は、俺の側だ。出ていくなんことも、二度と言わねえでくれ」
源治の手がお民の髪を撫でる。お民の頭両手で抱え込み、源治は唇をその豊かな黒に押し当てた。昨夜の嘉門も閨でお民の髪口づけたけれど、嘉門の仕草と同じはずなに、込められた意味合いが全く違う。
優しさと労りのこもった源治の口づけと欲情に突き動かされ、ただお民の身体を征することしかなかった嘉門のもの。
それは、二人の男の違いをそのまま如実表しているかのようでもある。
やはり、自分の居場所はこの男の傍しかいのだ。お民は源治の胸に抱かれながら、の想いを改めて噛みしめたのだった―。
だが。
予期せぬことがお民の知らぬ間に、次第進行していた。
そのことにお民が気付いたのは、水無月初めの頃だった。お民が嘉門に出合茶屋にれ込まれ、乱暴されるという事件から三月(みつき)ど後のことである。
三ヵ月前の事件当日の夜、源治にしろ、花ふく?の岩次にしろ、色を失って動転したそれもそのはずで、いつもよりはやや遅れ花ふくを出たはずのお民がいつまで経っも、徳平店に帰らない。業を煮やした源治迎えにきたところで、初めてお民が帰宅途にゆく方を絶ったことが明らかになった。民が事件当夜に辿ったと思われる道筋には岩次がその日、帰り際に託けた重箱が落ちいた。そのことからも、お民がその場所―て子稲荷の前で何者かに襲われ、どこかにれ去られたと考えるのが妥当だった。
徳平店の住人たちは夜どおし、心当たり手分けして捜索した。源治も単身、お民のきそうな場所はすべてしらみつぶしに探た。
朝になって、番屋にも捜索願いを出したがお民は見つからなかった。一夜明けた時、治はお民がやはり何らかの事件か事故に巻込まれたことを確信しないわけにはゆかなった。
その時、既に源治の心には、厭な予感が来していた。お民の突然の失踪に、あの石という旗本が関係しているような気がしてらなかった。仮にあの男がお民を攫ったのとすれば、お民の生命を取るようなことはないだろう。―しかし、何が目的でお民をれ去ったかは、おおよその予想はついた。命を脅かされることはないだろうが、お民身が無事で済むとは思えなかった。
あの卑劣な男は、お民の身体が目当てで花ふくからの帰り道、お民を連れ去ったに違なかった。
源治の予感は計らずも現実となった。おはやはり石澤嘉門に拉致されたのだ。お民身は何も語らないし、源治もまた敢えて訊ないが、翌日の夕刻、ふらりと帰ってきた民の様子を見れば、何が起きたかは一目瞭であった。まるで女郎が着るような派手なの長襦袢一枚きりの姿で、涙を流していた民。
あろうことか、お民の首筋には紅い痕がっていた。あれが何を意味するものか―、治は考えたくもないが、強い力で首を絞めれた痕のようなものに違いない。
石澤嘉門は、お民を殺すつもりだったのろうか。卑怯なやり方で我が物とし、ひとびは解放した後もなお忘れ得ず、略奪紛いことまでして手に入れようとした女。そこで惚れ込んだ女を、手に掛けるつもりだっというのか。
源治には、考えられないことだ。惚れたであれば、膚を合わせることを無理強いはたくないし、ましてや靡かぬからといってその生命を奪うなど論外だ。つまりは嘉門お民への恋情がそれほどまでに深く烈しいのだとないえなくもないが、自分のものにらねば、殺すという思考は間違っている。 烈しい愛は時として憎しみにも変わる。しく想う心の裏返しだ。
しかし、源治は、そのような女の愛し方理解できなかった。惚れているのであれば尚更、大切にしてやりたい。その心が自然やわらぐまで、春の光が根雪を溶かすよう辛抱強く待ち続ける、それが源治の考えるし方であった。
嘉門の烈しい愛は、お民への並外れた執を物語っている。それは源治でさえ、空恐しいと思うほどの強さだ。だが、そこまでれているのであれば、どうしてもっと大切してやろうと思わないのだろう。己れの欲のままに連れ去り、犯し、嘉門は常に自分作った檻にお民を閉じ込めようとしているその狂気じみた愛し方は一種、異様であった。 あのときのお民の姿を思い出すにつけ、治は抑えがたい怒りとやるせなさに襲わる。
武士は、町人相手なら何をしても許されと考えているのだろうか。卑怯な方法でおを一年近くも側妾として慰みものにしただでは気が済まず、またしても連れ去り、手めにした男。許されるならば、あの男をこ手で気が済むまで殴ってやりたい。お民のあわされた屈辱や哀しみの分まで、存分にってやりたい。
だが、哀しいかな、源治は一介の町人にぎず、相手は直参旗本、しかも時の老中松越中守を伯父に持つという血筋を誇る男だ嘉門に刃向かっただけで、源治はその場で討ちにされてしまうだろう。
お民はあれから、健気に何事もなかったうにふるまっている。源治は己れの配慮がりなかったことが、この事件を招いたのだ我と我が身を責めた。
あの事件以来、花ふくからの帰りは必ず治がお民を迎えにいくことになった。
何も知らぬ花ふくの客たちは、
―源さんも恋女房の送り迎えまでするとはこいつァは、よっぽどお民さんにイカレちってるんだろなぁ。
作品名:石榴の月~愛され求められ奪われて~ 作家名:東 めぐみ