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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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「生きる気持ちをなくしちゃ駄目だ。あんはまだ生きてるんだ。だったら、姉さんのよに死ぬことなんか考えずに生きな。あんた連れてきた男とあんたの間に、どんな拘わがあるのかまでは知らない。あの男は別にちの馴染みってわけでもないしね。マ、見ところ、かなりの身分の武士だろうけどねあたしは金のためならたいがいのことはすけど、ああいう輩は昔から大嫌いさ。金さ出しゃあ、何でもこちらが這いつくばってうことをきくのが当たり前なんて、ふんぞ返ってる奴を見ると、反吐が出る」
 吐き捨てるように言うと、肩をすくめた。「女にそこまで惚れ込んだのなら、自分の斐性で靡かせてみろってえんだよ。仮にも分のあるお武家がそこら辺のごろつきのよに女をかどわかして、手込めにするなんざぁ世も末だよ。あのお侍はあんたをここに閉込めて、囲うつもりだね。いずれは別の場に移すけど、しばらくはここで預かって欲いなんて言ってたから、全く何を考えてるだか、助平で金だけはたんまりと持ってるの考えそうなつまらないことだよ」
 それでもなお、黙り込んだままの女に、将は問いかけた。
「あんた、亭主がいるんだろ?」
 女がまたたきし、視線をゆっくりと動かた。
 女の眼に、見る間に涙が溢れた。
「亭主が恋しいのかい?」
 女がかすかに頷いた。
「なら、死ぬことはないじゃないか。恋し男が待ってるなら、その男の許に帰れば良いあんたが死んだら、亭主が泣くよ?」
「でも」
 女が初めて口を開いた。
「もう―あのひとの許には帰れません」
 消え入るような声で言うのに、女将はけけらと笑った。
「こんなに穢れた身体では、もうあのひとところには帰れない。合わせる顔がありまん」
「馬鹿だね。なにを歌舞伎か浄瑠璃芝居のうな科白言ってんの。好きなら、惚れてるら、何も考えないで男の胸に飛び込んじまば良いんだよ。好いた惚れたに、難しい理も厄介な言い訳も要らないんだ。あんたをどおりに迎えるかどうかは、あんたの決めことじゃない。あんたの男が決めることだろえ? そうじゃないかえ」
 女が弾かれたように顔を上げる。
 眼が合った刹那、女将は微笑んだ。
 やはり、澄んだ良い瞳をしている。
 引き込まれそうなこの瞳に、たった一瞬惑わされる男は多いだろう。この女を亭主ら奪い、攫ってきたあの男もそんな魅せらた男の一人といったところか。
「お行き。もう、二度とあんなつまらないに捕まるんじゃないよ。女を人間とも思っゃいない、屑のような男に良いようにされまうほど情けないことはないからさ」
 女が女将を物言いたげに見つめる。
「礼なんぞ要らないから、さっさと行きなあの男は夕刻また来ると言ってたけど、い気が変わるともしれないから」
「―ありがとうございます。ご恩は忘れまん」
 女が深々と頭を下げた。
「ああ、恋しい亭主と仲良くやるんだよ」 その言葉に背を押されるように、女は階を小走りに駆け下りてゆく。
「柄にもないことを言っちまったかねえ。れで、大事な金蔓を逃がしちまったってこになるけど、まっ、良いか」
 女の背を見送りながら、女将は苦笑した。
     【四】

 黄昏刻の空が茜色に染まっている。
 見慣れた長屋が何故かとても懐かしい。った一日見なかっただけなのに、もう数日いや十日も見ていなかったような気がしてらない。西の端から茜色に染まった空が徐に菫色に変わってゆく。夕暮れの空を背景した徳平店は随分とこぢんまりとして見た。
 見憶えのある我が家の前に佇むと、お民逡巡した。嘉門がお民を連れ込んだのは、明寺門前道沿いの出合茶屋の一つであった幸いにも、女将の機転と気遣いで嘉門が再訪れる前に、逃れることができたお民は一は随明寺に身を隠した。
 どうしても、あのまま真っすぐに徳平店戻ることができなかったのだ。随明寺には大な境内に諸伽藍が点在しているが、そのの絵馬堂に身を潜めていた。絵馬堂はそののとおり、願い事を記した絵馬を奉納するめのこじんまりとした御堂だ。正面の両扉はそれこそ無数の絵馬が掛けられていて、種独特の雰囲気が漂っている。
 随明寺の中でも奥まった場所にあり、しもこの界隈は昼間でも人気がないことから人眼を忍ぶ男女の逢い引きなどにもよく使れているという。
 お民はその御堂の中に夕方近くまでいた。 だが、流石に陽が暮れてくると、このま夜を明かすわけにもゆかず、随明寺を出てた。この近くをうろうろしていて、また嘉に見つかっては元も子あったものではないそう考えている中に、気が付けば、懐かし我が家の前に立っていたのである。
 長い春の陽も暮れ、周囲に薄い闇が漂いめた。空は菫色から、夜の色へとうつろおとしている。
 長屋の家々にも次々に灯りが点り始める刻になった。ふっと、眼の前が明るくなりお民は眩しさに眼を細めた。
 腰高障子越しに、長い影が映っている。るで影絵を見るかのように、黒い影がゆららと揺れていた。
 懐かしさに、じんわりと涙が滲む。
 その時、突如として向こうから腰高障子音を立てて開いた。
 ひっそりと佇むお民を見て、源治が息をんだ。
「お前さん、私―」
 呟くと、溢れた涙が雫となって、つうっ頬をつたった。
「お民」
 源治の整った貌に愕きが走った。
 良人の視線が自分の全身を慌ただしく辿のを見て、お民はうなだれた。
―一体、何があったんだ?
 当然、その質問を予想していたのに、源は何も言わなかった。
 ただ哀しげな眼で、お民を見つめていた。「私、また―」
 言いかけたお民の身体がふわりと温かなに包み込まれる。
「もう、良い。何も言うな」
 何かに耐えるような表情で、源治は長い間お民を抱きしめていた。
 かすかな嗚咽が聞こえてくる。源治が男きに泣いているのだと判った。
 源治が静かにお民の身体から手を放す。「どこか、怪我なんかはしてねえな?」
 念を押すように問われ、お民は小さく頷く。 源治が改めて、お民をしげしげと見つめた。 抵抗して痛めつけられたため、首には焼のように男の指の痕がついている。
 源治の手が伸び、お民の首筋にそっと触た。紅く鬱血した傷痕を、優しい指の感触撫でる。それだけで、お民は痛みも何もかも一瞬忘れられるような気がした。
 源治は、しばらくその部分を撫でていたが結局、その紅い痕についても何も訊かなかた―。
 お民は源治の視線に耐えきれず、そっとを背けた。無意識の中に胸許をかき合わせのは、やはり源治に嫌われたくないという持ちからだったろう。
 お民は緋色の長襦袢一枚きりという姿でった。まるで、これから客を迎える遊女のうななりである。
 加えて、ここ半月ほどの間に石澤嘉門が民の周囲に出現していたこと、お民が昨夜ら突然、ゆく方を絶っていたことを考え合せれば、お民の身に何が起こったかと想像るのは難しくはないはずであった。
 お民が襲われた捨て子稲荷の前には、花くの岩次から貰った残り物の重箱が散らり、中身が無惨な状態となり果てていた。場の惨状だけでも、事態がただならぬことお民が強制的に連れ去られたことは明白だ。―この男(ひと)は、私の身に起こったことを全部っている。
 お民は絶望的な予感に、眼の前が真っ暗なった。
「何があったか、訊かなくて良いの?」