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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 あの捨て子稲荷の前まで走れば、何とかる。お民はともすれば挫けそうになる我がを奮い立たせ、一挙に勢いをつけて走った。 幸いにも十六夜の月が心強い味方となっくれる。真昼のように明るい光が脚許を照している中、お民は一心に走った。
 距離にしても、たかだか知れているから走ったのはほんの一刻のことであったはだ。それでも、死に物狂いのお民にとって随分と走ったように思えた。漸く捨て子稲の前まで辿り着き、荒い息を吐きながら辺を見回した時、既に脚音はふっつりと絶えいた。
 幾ら耳を澄ませてみても、不気味なあの音は聞こえない。
 ホウと心から安堵の吐息をつき、その場へなへなとくずおれるように座った。
 これもお稲荷さまのご利益かもしれないなどと、場違いというか、何とも手前勝手解釈でとにかく小さな祠に向かって両手をわせる。
 ここは祠といっても、別に神社のようにい境内地があるわけではなく、一角に小さお社がぽつねんと建てられているだけだ。の側に一本だけ植わった桜の古樹はまた何も貧相で、春になるとそれでも薄紅色の花ちらほらとつけるのが不思議なほどであた。
 この桜もあと十日もすれば、また可愛らい花を咲かせる。その日暮らしの貧乏人にっては、花見としゃれ込むゆとりも金もなくせめてこの桜を見て通る度に、花を見て?あ、今年もまた春が来た?と慌ただしく感るくらいのものだ。
 小さな祠の真後ろはわずかな空き地となているが、灯りとてなく、闇が凝って更にい闇を作っているようである。月明かりもこまで届いていないらしく、それこそお狐までも出てきそうな暗闇に、気丈なお民も気味悪く思いながら立ち上がった。
 これでまた遅くなってしまった。源治は配しているだろうか、それともまた帰りがいと怒られるだろうか。
 良人の怒った顔を思い出し、首を竦めた時前方の闇がユラリと動いたように見えた。 眼の錯覚だろうか、疲れているのかもしない。やはり、早く帰って今夜は寝た方がさそうだ。お民が踵を返そうとしたのと、前にぬっと大きな黒い影が立ちはだかったはほぼ同時のことだった。
「きゃっ」
 お民はあまりの愕きに、悲鳴を上げた。 影がゆっくりと動く。次第にこちらへと動してくるのを、お民は茫然として眺めてた。
 ふいに月光がその影の主を照らした。月かりに浮かびあがったその正体を見て、おは更に声にならない声を上げる。
「そんな」
 端整な顔には何の感情も浮かんではいなった。ただ黄泉の国から甦ったという死者ように、虚ろな表情でお民を凝視しているしかし、その眼だけは異様な輝きを放ち、民を射竦めるような眼光は以前より更に鋭を増している。
「あなたがどうして」
 どうして、こんなところに。
 お民は夢中で後ずさった。
 怖い、無性にこの男が怖かった。半月前町人町の縹やの前で声をかけられた時、あ男―石澤嘉門はお民をずっと付けていたのと言った。
 では、やはり、あれから後も嘉門はお民ずっと付け回していたのだろうか。
 この男のすることが尋常だとは思えなかた。最早、どこか狂っているとしか思えない。「何故、逃げる」
 嘉門が低い声で呟いた。
「俺はそなたを忘れられず、ずっとこうし心は虚ろだというに、そなたは何故、そのうに生き生きと美しう輝いておるのだ」
 お民は首を振った。
「止めて、来ないで」
 お願いだから、もう自由にして。いつまも私につきまとわないで、これ以上、あなと過ごした昔を思い出せないで。
 お民が心で叫んだ時、突如として鳩尾にい衝撃と痛みを憶えた。
「どうして―、こんなことをするの」
 絶望の呟きと共に、お民の身体が花が落するようにくずおれる。地面に倒れる寸前嘉門がその身体を抱き止めた。
 花ふくの岩次が持たせてくれた重箱がおの手から音を立てて落ちた。心づくしの料が地面に散らばり、無惨に泥にまみれる。「やっと捕まえた」
 嘉門が軽々とお民を抱え上げる。その重もやわらかな膚も嘉門にとっては、すべて愛おしい、懐かしいものに思える。
「もう、離さぬ。そなたは未来永劫、俺ののだ。そなたは最早、俺から逃れることはきぬ」
 嘉門が魔界から響いてくる亡者のようなで笑う。くっくっと不気味な声を上げながら嘉門は腕にかかる愛しい女の重みを確かな応えとして実感していた。

     【参】

 覚醒は突然、訪れた。闇の底から意識がに浮上してくるかのような感覚があり、続て、眼が開く。水から陸(おか)に上がったような長い眠りから覚めたようなときに似た感だ。まだぼんやりとした頭で、お民はゆると首だけを動かして、自分の置かれた状況確かめようとする。
 頭の芯だけでなく、胸の辺りにも鈍い痛が残っている。
 どうやら、夜具の上に仰向けに寝かされいたようだ。鮮血で染めたような毒々しい合いの大きな夜具が二つ、並べて敷いてあるその一つに横たわっていたらしい。
 枕許には小さな衝立があり、片隅に殆ど褪せた小さな姫鏡台が放置されたように置れていた。
 部屋の壁の色も全体的に赤っぽく、やはこれも塗りの剥げた衣桁には緋色の長襦袢ひろげて掛けられている。
 お民にもここがそもどこなのかは薄々はせられた。恐らくは出合茶屋、男女が秘密逢瀬や情事を重ねるための連れ込み宿のよなものではないか。
 その時、初めて自分が捨て子稲荷の前で者かに襲われたのだと思い出した。
「やっと気付いたか」
 その声に、お民はハッと面を上げた。
「何でこのようなことなさるのですか」
 心の動揺をひた隠し、相手を真っすぐにつめる。その凜とした態度に、嘉門がおやいう表情になる。
「これはまた、随分と強気だな。こんな有様で目覚めても、取り乱しもせず泣き喚きせぬか」
 お民は瞳の視線の力を強める。
「私をお帰し下さいませ」
「帰す―? 一体、どこに帰すというのだそなたの帰るべき場所は、俺のところしかいだろう」
 空惚ける嘉門に、お民は首を振り、きっりと言った。
「いいえ、私の帰る場所は良人の許しかごいません。どうか私を良人の許にお返し下い」
「ホウ、果たして、真にそうかな。そなた俺を―いや、正確に申せば俺と過ごした夜ことをいまだ忘れておらぬとしたら?」
「そのようなことがあるはずもございませぬ私のご奉公はあくまでも年季を定めてものて、既にその一年は過ぎましてございます最早、先日も申し上げたようにあなたさま私は何の縁もゆかりもなき間柄、このようことはお止め下さいとお願いしたはずでごいますが」
「ふん、口では何とでも言えるな。お民、はそなたに惚れている。できれば、無理強という形では、そなたを抱きたくはないのだ本音を申さば、そなたに手荒なことはあましたくはない。大人しうに俺に身を委ねる良い」
 お民は嘉門との間合いを計った。
 これなら、何とかなるかもしれない。我我が身を励ましつつ、嘉門の様子を冷静に察した。男は余裕たっぷりで、お民の反応愉しむかのように腕組みをして佇んでいるお民を見下ろすような恰好で話しているだ。
 今ならば、まさか嘉門もお民がこんな状で逃げ出そうとするのは夢にも考えてはいいだろう。