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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 たとえ、どんなに戻りたいと思ったとしも。心がこの男を求めていたとしても、帰てくるべきではなかったのかもしれない。 それでも、居たいと願ったのだ。もう二と、源治の側を離れたくないと、自分の帰場所は源治の側しかないと思い、帰ってきのだ。
 でも、それは間違いであったのだろう。 源治のことを心底から思うのであれば、らく、自分はここに戻ってくるべきではなったのだ。幾ら心が変わらずとも、お民はう以前の、源治と所帯を持ったばかりの頃お民ではない。石澤嘉門の側室として嘉門さんざん慰みものにされ、この身体は穢れっている。
 たとえ言葉では何と言い繕おうと、その実を変えることはできないのだ。多分、源だって、態度にはおくびにも出さずとも、のことを―女房が他の男の妾であったことを忘れることは片時たりともないだろう。や、むしろ、お民が傍にいることで、余計思い出したくもないことを思い出すのを強られているのかもしれない。
 源治を忘れられないからといって、ここ帰ってきてしまったのは、お民の我が儘とうものだったのだ。
 現に、源治に抱かれていても、嘉門とのの記憶がふと浮かぶのは再々ではないか。の記憶の断片(かけら)がぽっかりと浮かび上がるに、お民は源治の腕の中から逃げ出したい動に駆られてしまう。自分でも認めたくなことだけれど、馴染んだ嘉門の愛撫を懐かいと思ってしまうときさえあるのだ。
 とうとう、お民の案じていたことが起こてしまった。源治はやはり気付いていたのだ。 お民は無言で立ち上がった。
 源治は想いに沈んでいるようで、固い表で唇を引き結んでいた。
 お民は哀しい気持ちで家を出た。腰高障を閉め、深い夜の中を覚束ない脚取りで歩出す。
 むろん、ゆく当てはなかった。幸いなこに、雨は大方止んでいた。しっとりと潤ん春の雨ではなく、心を凍らせるような冷た冬の雨。昨日一日、降り続いていた雨はそな雨だった。
 あと二十日もすれば、桜が咲こうかとい時季になっているというのに、まるで真冬逆戻りしたかのような陰鬱な鉛色の空を思出し、お民は身震いした。
 当てもなく歩き続けている中に、いつし和泉橋のたもとまで来ていた。何かあるとお民は必ずと言って良いほど、ここに来る。 江戸の外れを流れる名もない川にかか橋、この橋を渡り終えた先に、和泉橋町がる。石澤嘉門の屋敷を初め、大身の大名、本の屋敷が建ち並ぶ閑静な武家屋敷町だ。 あの屋敷で過ごしたわずか八ヵ月ほどの々が、お民の一生を大きく狂わせることにるとは、あの屋敷の門をくぐるまで、お民想像だにしなかった。心さえ、自分の気持さえしっかりとしていれば、何も変わるこはないと思っていた。
 たとえ嘉門の屋敷に上がっても、帰ってるまで待ち続けると言ってくれた源治をじ、源治の許に帰ってきたのだ。だが、世中には許されることと、許されぬことがあるたとえ心が大切とはいっても、それだけで済まされないこともあるのだと、お民は源と再び一緒に暮らすようになって初めて知た。
 この橋一つを隔て、賑やかな商人たちのう町、町人町と閑静な武家屋敷町、和泉橋があい対峙している。嘉門の屋敷にゆく朝ここで源治に涙の別れを告げたときのこを、お民は今更ながらに思い出していた。 あの時、自分はもしかしたら二度とは戻ぬ修羅の橋を渡るのかもしれない。そう漠と思ったものだったけれど、どうやら、そは酷(むご)い現実となってしまったようだ。
 たとえ、現実の橋を越えることはできても心の橋までは渡れない。心と心を繋ぐ橋、治の心とお民の心を繋げる橋を、お民が渡て愛しい男の心に辿り着くことはできないだ。
―こんなに好きなのに。
 お民は思わず眼に溢れた粒の雫を手のひでぬぐった。
 かすかに水の匂いを含んだ夜風がお民のらりと額にかかったひとすじの髪を嬲る。 物想いに沈んでいる間に、いつしか雨は全に止んでいた。雨上がり特有の土と水気たっぷりと含んだ夜気が周囲に満ちている。 あれほど重たげな鈍色の雲が幾重にも覆ていた空は随分と明るくなっている。雲のれも速く、時折、雲間から細い月光が差しいた。
 この世には、どうにもならないことがある。 互いの想いが変わらずとも、こうして、れ違い、亀裂はどどん大きくなってゆき、えられないほどに溝は深くなる。
 心はこれほどまでに源治を求めているとうのに、どうして身体が言うことをきかなのだろう。源治に触れられる度に、何故かあの男の指先を思い出してしまうのだ。
 お民の白い裸身のを丹念に辿ったあの男熱い唇やまなざしをつい思い出してしまうお民の身体の隅々を嘗め尽くすように熱っい視線を意識する度に、お民はあたかも現に男に犯されているかのように四肢に妖し感覚を憶えたものだった。
 だからといって、あの男自体に愛しさをじているわけでもなく、未練を抱いているけでもない。それなのに、あの男に貪り続られたこの身体は、あの男の指先の感触をというほどしっかりと憶え込んでいる。あ視線で犯されたときにひろがったような妖い震え、あの震えを感じたときの心地良さお民の身体にきっちりと刻み込まれている。―汚れ切った、この身体。
 お民は自分で自分の身体をギュッとかきいた。
 あの男に弄ばれ続けた自分の身体はもう他の男を受け容れることができなくなってまったのかもしれない。自分の身体さえ己の心の思うがままに動かせないのが情けい。まるで身体と心を真っ二つに引き裂かたように苦しい。
 三月初めの夜は、昼間の陽気が嘘のよう肌寒い。ましてや、冷たい雨が降り続いた更けは、空気は氷のような冷たさを孕んでる。薄い夜着一枚きりで飛び出てきたお民は既に身体の芯まで冷え切っていた。
 寒い、まるで身体が内側から徐々に凍っいっているのではと思うほど寒くてたまらい。
 お民はあまりの孤独と絶望感に、棄てらた仔犬のように身を震わせる。
 その時、背後から、ふわりと肩に温かなのがかけられ、お民は愕いて振り向いた。 眼を見開くと、ほのかな月明かりを浴びて源治がひっそりと佇んでいた。
 淡い月光が源治の精悍な貌を縁取ってる。怯えた仔犬を見つめるような複雑そうまなざしには、女への愛おしさと憐憫とわかにもどかしさの色が混じっていた。
 そのやるせなげな男の瞳の色が、お民にこたえた。多分、お民さえ、嘉門の亡霊にきずられることがなければ、源治はお民をけ容れてくれる。源治が嘉門と過ごしたおの八ヵ月間に拘っているのは、お民自身のいだ。お民が嘉門との記憶に縛られることなければ、源治はお民が嘉門の側妾であっことをお民に思い出させるようなことは一言わないはずだ。
 源治とは、そういう男だ。自分の心よりお民の心の方を気遣ってくれるような優し男なのだ。なのに、源治がこうまで頑なにり、過去を持ち出そうとするのは、お民自が過去を忘れようとしないから。
 あの男と過ごした夜の記憶は、忌まわし汚辱にまみれたもののはずなのに、何故、ち切ることができないのだろう。
 すべてを承知でお民を両手をひろげて迎ようとする男に、何故、素直に心から身をねることができない? 
「ごめんなさい、黙って勝手に一人で飛びしちまって」
 源治の着せかけてくれた綿入れの袢纏がかい。それが、今の男の心のようで、お民嬉しさと申し訳なさで泣けてきた。