石榴の月~愛され求められ奪われて~
いつでも、どんなときでも、自分に与えられた場所で、そのときの精一杯の力を尽くす。それが信条のお民をもってしても、石澤嘉門に対しては何の力になることもできなかった。
卑怯な手段を使ってお民を手に入れ、お民の身体を欲しいままにした男だったけれど、お民は、けしてその不幸や破滅を願ったわけではない。
かといって、源治の言うとおり、これから先、お民のできることは何もない。嘉門をついにお民は愛せなかった。あの淋しい眼をした男に、結局、お民は何の力にもなれなかったし、何をすることもできなかった。もし、仮に、あのままお民があの男の傍に居続けたとしても、嘉門の孤独を癒やすことはできないのだ。
お民には誰より惚れている良人がいる。お民の居場所は、この男の、源治の傍より他にないのだと、お民は今回のことで厭というほど思い知らされた。自分にとってこの男がこれほどまでに必要な存在なのだとは自分ですら考えてみたこともなかった。
源治と離れている間中、お民はまるで自分の身体と心をどこか他の場所に―徳平店に置いてきたかのような心許ない気持ちだった。
「終わったことをくよくよ考えるのは止しな。俺たちには明日がある。これからは後ろは振り返らずに前だけ見て歩いてゆこう。たとえ、何があっても、お前はお前だ。俺は、そのままの今のお前が好きなんだ」
お民はその言葉に小さく哀しい微笑みを洩らして、もう一度溢れ出した涙を拭ってから源治と共に歩き始める。
歩き始めてすぐ、和泉橋が見えてきた。懐かしい場所、見慣れた風景。橋のほとりに植わった桜の樹が茂った葉を紅く色づかせている。その眼にも鮮やかな色を感慨を込めて見つめていると、源治の声が耳を打った。
「子どものことは聞いたよ。色々と辛い想いをしたな」
深い声音に、お民は愕いて瞳を上げる。
ふいに湧いてきた新しい涙に狼狽して、お民は源治の胸に顔を押し当てた。
優しい手が不器用に髪を撫でてくれる。
「今度こそ、俺の子を生んでくれ。これからは子どもを山ほど作って、皆で賑やかに暮らそうぜ、なっ」
お民を見た源治がふっと頬を緩める。
「だから、もう泣くな」
男の言葉が深く響いた。
不安はある。嘉門に慰まれたお民を源治が昔のように女房として受け容れてくれるのか。
嘉門との夜に馴染んだお民の身体が以前のように源治を受け容れられるのか。
感情と欲望、―心と身体はたとえ口でどのようなきれいごとを言ったとしても、全く別のものであり、けして互いにつり合っているわけではない。その残酷な矛盾を、お民は厭というほど知っている。
心や愛がなくても、膚を合わせることはできるし、身体だけなら、愛してもいない男の巧みな愛撫に馴らされてゆくこともある。そして、その果てに悦びさえあることも。
昔どおりの二人に戻れるという絶対的な自信はなかった。
それでも、この男とずっと一緒にいたい。
その一心で石澤の屋敷での苛酷な日々にも耐えたのだ。だから、どんな試練だって乗り越えてみせる。
源治がお民の身体に手を回す。抱き潰して殺すつもりなのではないかと疑いたくなるような強さで抱きしめられたが、お民は抵抗もせず、自分も源治の背中に両手を回した。
( 第一話 了)
第二話
橘―夏
色目
または、夏を表現する色目としては夏萩?がある。
【壱】
軒を打つ雨音だけがかすかに聞こえてくのが、かえって夜の深さを際立たせているその日、一日中降り続いた陰鬱な雨は、夜けになっても、いっかな止む風もなく降りけていた。
そのひそやかな夜の底に、衣擦れの音やえかな吐息が響く。あたかも降り止まぬ静な雨音に溶け込むかのようなひそやかさでる。
ここ江戸の外れの徳平店と呼ばれる粗末棟割り長屋の一角。左官の源治の住まいで薄い夜具の上で二人の男女が絡み合ってた。女の白い肢体に覆い被さる男の後ろ姿屈強で、枕許の行灯の投げかけるぼんやりした光が、男の精悍な陽に灼けた横顔を夜にぼんやりと浮かび上がらせている。
男の手が女のふくよかな乳房を揉みしく。首筋に熱い吐息が吹きかけられ、男のが次第に下に降りてゆくのをお民はぼんやとした意識で感じていた。男の手がお民の腹部まで伸びたそのときのことだ。
お民がかすかに身を捩った。
お民の唇を吸おうとしていた源治がふとを寄せる。唇が重なり合おうとするまさにの一瞬に顔を背けた妻を、源治は訝しげにつめた。
「どうした?」
お民は、ゆっくりと眼を開いた。薄く笑で、首を振る。
まさか良人に抱かれているその最中に、の男のことを思い出したなぞとは死んでもにはできない。
「ごめんなさい」
お民は素直に謝り、再び眼を固く閉じた。 源治の顔が近づき、唇が重なる。しんとえた男の唇は芯にほのかな熱を帯びているそれは、普段は沈着で滅多と感情を露わにぬ源治が内に秘める情熱を物語っているよでもある。
良人が身の内に燃え滾る焔を隠し持つこを知ったのは、いつのことだったか。お民まだ最初の亭主兵助の女房だった頃、源治斜向かいに住む気の置けない隣人にすぎなった。物静かで大人しくて、口うるさい世女房よろしく、逢えば毎度説教、訓戒と要ぬお節介ばかり焼いていたお民を、源治はだ笑って適当に受け流していた。
だが、どうやら、それは源治という男のんの見かけだったらしい。源治という男は上辺からは想像も及ばぬほどの熱さを秘め男であった。それを痛切に感じたのは、一前、お民が和泉橋町の旗本石澤嘉門の側妾なったときのことだ。
この徳平店の大家紅屋惣右衛門は商売がまくゆかず、方々に多額の負債を抱えていたそれを知った口入れ屋三門屋信吾がかねてらお民を見初めていた嘉門に入れ知恵を授たのだ。徳平店の建つ土地を嘉門が買い取り徳平店を取り壊すと言い出した。それを阻するための条件として、お民を一年の期限きで嘉門に側室として差し出すように命じのである。
その時、源治は烈火のごとく憤った。そは何も源治でなくとも、当然のことであっろう。突如として自分の女房を取り上げられしかも自分たちの暮らす長屋の取り壊しを件に差し出せと言われて、大人しく従う男いるまい。
源治はあの時、お民に言った。
―他の連中のことなんぞ気にすることはぇ。どこかに引っ越して、お前は知らん顔していれば良い。
だが、お民にとってこの裏店は九年間、み慣れた懐かしい我が家であった。ここで初の良人兵助との新婚生活を過ごし、兵太いう愛し子を授かり、また失った。幾ら我身が助かりたい一心からとはいっても、徳店の人々を見捨てて、自分だけがのうのう別の場所に逃げて生き存えることはできなった。
結局、お民は嘉門の許に上がる道を選んだあのときの源治の落ち込み様は、当人のおの方が見ていられないほどだった。
そして、今、嘉門の許から無事帰ってきお民は、こうして良人と共に表面だけは何変わらぬ毎日を過ごしている。
作品名:石榴の月~愛され求められ奪われて~ 作家名:東 めぐみ