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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 お民は、ぼんやりと月を見上げながら、泣いていた。
 自分でも何が哀しいのか判らなかったけれど、涙はとめどなく溢れ続け、白い頬を濡らす。眼から涙を流し、下からは血を流しながら、お民はその場に立ち尽くす。
 隣室で眠っていた侍女が異様な気配に気付き、起き出してきたようだ。寝間へと続く襖を開けた侍女の眼に映じたのは、何とも凄惨な光景だった。
 月を見上げて、うっすらと微笑みながらも、何故か泣いている女主人を見、更にその脚許を見た侍女は絶叫した。
 この館の主が異常なほどの執着を見せて寵愛する美しき側女の脚許には血溜まりができていたのである―。


 眼の前で大きくそそり立つ門の両扉が軋んだ音を立てて閉まった。
 お民はそれでも精一杯の想いを込めて石澤家の屋敷に、その屋敷の中にいるであろう人々に小さく頭を下げた。
 お民が旗本石澤嘉門の屋敷から八ヵ月ぶりに出てきたのは、その年の十月初めの朝であった。長かった暑い夏も終わり、江戸に秋の風が立つ頃になっていた。
 徳平店を出たのはまだ紅梅の咲き匂う早春だったのに、知らぬ間に季節はうつろい、いつしか山々が澄んだ大気にくっきりと立ち上がって見える秋になっている。
 お民は今、また、来たときと同じように一人となってこの屋敷を出てゆこうとしている。
 結局、子は生まれなかった。
 ひと月余り前の晩夏の宵、お民は大量の出血をきたし、腹の赤児は血と共に流れた。胎児は世嗣となるべき男児であったため、祥月院以下、石澤家に古くから仕える家臣一同、地団駄踏んで悔しがったという。
 父親である当の嘉門は、子が流れたとの知らせを受け取ると、?そうか?とただひと言呟いただけで、過剰な反応は全くなかった。
 ただ、それ以降、嘉門はますます無口になり、自室に閉じこもりきりになることが多くなった。昼夜を問わず、酒を呑み、虚ろな眼をして座っているそうだ。
 嘉門がお民を屋敷から出すと言ったのは、お民が流産した数日後のことであった。
 祥月院などはかえって、
―あの女は殿の御子を、しかも若君を懐妊していたのですよ。あの若さであれば、直に身体も回復し、すぐにでもまた、子を孕めましょう。暇(いとま)を出すなぞと仰せにならず、今までどおり、お傍に置いてお閨に召して夜伽をおさせなさいませ。
 と進言した。
 しかし、いくら祥月院が翻意させようとしてみても、嘉門は首を縦に振らなかった。
 にも拘わらず、お民がそれからひと月以上も放免されなかったのは、お民自身が流産後の肥立ちが思わしくなかったせいもあった。
 一度にあまりに大量の血を失ったため、お民は一時は意識を失い生死の淵をさまよった。助かったのは奇蹟的で、よほどの御仏の加護があったに相違ない―と、医者は真顔で言った。腹の子だけではなくお民まで生命を落としていたとしても何の不思議もなかったのだ。
 嘉門がお民に暇を出すと宣言したのは、お民が意識を取り戻した直後であった。その後、一ヵ月間、お民は石澤家の離れで療養生活を送り、今日、やっと外の世界に立ち帰ることが許されたのだ。
 子が流れてからというもの、嘉門はついに一度としてお民の許を訪れることはなかった。それでも、意識のない間は、何度かお民の許を訪れ、一度はひと晩中、傍についていたこともあったと、これは、お付きの若い侍女から聞いた話である。
 この侍女は、お民を何かと冷たい眼で見ていた石澤家の侍女たちの中では比較的、好意的で話しやすかった。
 不思議なことに、あれほど嘉門の子を生むことを厭うたにも拘わらず、子を喪って、お民は初めて子への愛しさを憶えた。まるで我が身の内にぽっかりと大きな空洞ができたような気がした。
 そう、この六ヶ月間、自分はあの子をこの身体の中で育ててきたのだ。あの子と自分は文字どおり一心同体だった。そのもう一つの自分、片割れを失ったのだ。自分の身体の一部が欠けたように感じても、何の不思議はなかった。
―ごめんね。おっかさんを許して。
 あの子が生きていた頃には、けして良い母ではなかった。日に日に自分の胎内で育ちゆく子の存在を男に陵辱された末の証として、何より疎ましいもののように思いさえしたのだ。
 どうして、もっと愛してやらなかったのか。
 こんなに儚い生命なら、この世に生まれ落ちることさえ叶わないというのなら、心からの愛を与えて、大きく膨らんでゆくお腹を何度も撫でてやれば良かった。
 この腕についに抱くことなく、あの子を逝かせると判っていれば、惜しみない愛を込めて、そうしただろう。
 大量の血とともに我が子を失ったあの日。
 何故、自分があんなにも泣いたのかは自分にも判らない。
 あの時、流したのは何の涙だったのだろう。
 血を流し尽くして死んでゆく己れへの涙か、それとも、この世の光を見ることもなく、闇路に旅立つ我が子への哀憐の涙か。
 今となっては、ひっそりと旅立った子どものことだけが心に残った。
 長い築地塀が続く人気のない道を一歩ずつ、踏みしめるように歩く。二度と帰ることができないかもしれぬと覚悟して歩いたこの道は、あの男(ひと)へと続いている。角を曲がると、見憶えのあるこのひときわ立派なお屋敷は老中松平越中守さまのお住まいだ。
 その前をゆっくりと通り過ぎようとしたその時、向こうから歩いてくる人影を認めた。最初は、しかとは判じ得なかったその人が次第に近付いてくるにつれ、奥底から懐かしさと愛おしさが込み上げてきた。
 お民が走り出したのと、源治が走り出したのは、ほぼ時を同じくしていた。
 どちらともなく走り出した二人は、もつれ合うようにして抱き合った。
「これは夢なの?」
 源治の腕に包まれ、大好きな男の匂いを胸一杯に吸い込みながら、お民は夢見心地で訊いた。
「夢なんかじゃあるものさ」
 源治がお民の髪に顔を埋(うず)めて、くぐもった声で呟く。
 しばらくそうやって寄り添っていた後、お民は顔を上げて源治と見つめ合った。眩しげにお民を見下ろし、源治が屈託ない笑みを見せる。
「差配さんから、お前が今朝、無事お役目を終えて帰ってくるって聞いてさ。長屋でじっと待ってても、何か落ち着かねえんで、こうして矢も楯もたまらず飛び出してきちまったってわけだよ」
 源治の気持ちは嬉しかった。何より、この男も自分を待っていてくれたのだと思えば、泣きたいくらい嬉しい。
 だが、その反面、源治の言う?お役目を終えて?という言葉が気がかりだった。
「私のしたことは一体、何だったのかしら」
 我知らずの中にポツリとひと言呟きが落ちた。
 源治がお民の身体に視線を向けて、一瞬、ひどく辛そうな表情を作った。それをすぐに消して、お民の頬に手を触れてくる。
「お前は皆を救ってくれたじゃねえか。お前のお陰で、徳平店は今もちゃんと残ってるぜ。お前は、お前にできるだけのことをやったんだ。それで十分じゃないのか。いや、十分すぎるほどのことをお前はやったんだよ」
「―うん」
 濡れた頬を手のひらで拭って、お民は頷く。
 源治には口が裂けても言えないことだけれど、お民が気にしているのは何も徳平店や皆のことばかりではない。