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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 医者の診立てでは、腹の子は既に四月(よつき)に入っているという。考えたくもないことだが、月数から考えれば、三月(みつき)前の弥生の末、椿の花冠を浮かべた風呂で嘉門に幾度も抱かれたあの頃に身ごもったに違いなかった。
 忌まわしい夜を思い出させるだけの赤児、嘉門に犯され夜毎責め立てられた陵辱の証。腹の子を不憫だと思う心はあったけれど、ただ弄ばれただけの末に身ごもった子を愛しいとは思えない。
 ここに、生命が、小さな新しい生命が息づいている。でも、その生命の芽は摘み取られてしまうだろう。他ならぬこの母の手で。
 お民が息絶えれば、共に腹の子も死ぬ。子どもには何の罪もないけれど、母に疎まれて生きてゆくよりは、よほど幸せかもしれない。
 何より、お民自身がもう限界だ。予期もせぬ懐妊を知ったその瞬間、お民の心は壊れてしまった。源治に再び逢える日だけを愉しみに今日まで何とか辛い日々にも耐えてきたが、もう、これですべてが終わりだ。
 張りつめていた糸が断ち切られたように、お民の心には最早、生きる力も、生きたいと願う気持ちもない。源治の許に帰るという目的があったからこそ、お民は生きてこられたのだ。
 そのたった一つの道標(みちしるべ)を失った今、お民がこの世に存在する意味もなくなってしまった。
 お民が鈍く光る刃を力を込めて引こうとしたまさにその時。
「何をしている、止めよッ」
 嘉門の悲鳴のような声が張りつめた静けさを破って響き渡った。走ってきた嘉門に有無を言わさず懐剣を取り上げられる。
 嘉門はお民から奪った懐剣を手の届かぬ場所に放り投げた。
「そなたは自分が何をしでかそうとしておったか判っているのか?」
 嘉門の怒気を孕んだ声が降ってくる。うなだれたお民の頬を刹那、火球が炸裂するかのような痛みが見舞った。
「それほどまでに俺の子を生むのが厭なのか。自分で自らの生命を絶とうと思うほどに!」
 頬を押さえて瞳にうっすらと涙を滲ませたお民に、嘉門は静かすぎる声音で言う。それは先刻までの怒りに満ちた荒々しさの片鱗すら残してはいない。
 お民を打った嘉門の方が、打たれた当人のお民よりも辛そうな顔をしていた。痛みを堪(こら)えるような眼で嘉門はお民を見つめた。
「腹の子に罪はない。頼む、漸く待ち望んだ子に恵まれたのだ。生んではくれぬか」
 どれほどの静寂が続いただろう、唐突に嘉門が言った。
「そなたにとっても待ち望んだ子ではないのか?」
 お民は溢れる涙をぬぐおうともせずに、眼を伏せた。
 四年前に亡くなった我が子兵太を一日として忘れた日はなかった。兵太を突如として失ってからというもの、ずっと子どもが欲しいと焦がれるように願ってきたのだ。だが、その祈りにも似た望みがこのような形で叶えられるとは想像だにしなかった。
 兵太を失ってから、最初の良人兵助との間に二度と子は恵まれず、一度は、再び母となることを諦めようとさえした。兵助の死後、源治と再婚して一年、月のものが少しでも遅れる度、もしや―と儚い希望を抱いたが、その度にがっかりして泣くことになった。
 そんなことの繰り返しだった。
 それなのに、嘉門に抱かれるようになってたった数ヵ月で、何故、自分は身ごもってしまったのだろう。このときほど、己れの苛酷な宿命(さだめ)を恨めしいと思ったことはなかった。
「良いな、馬鹿げたことは二度と考えるでないぞ。折角授かった子ではないか、身体をいとうて、健やかな子を生め」
 嘉門の手がそっとお民の頬に触れる。
 つい今し方、嘉門が殴った箇所だった。まだかすかに痛みが残っているその場所を、嘉門が撫でた。
「判ったな」
 念を押すような口調には、到底逆らいがたいものがある。
 お民は力なく頷くしかなかった。

 そのふた月後。
 お民は夜半にふとめざめた。
 また、悪夢にうなされていたのだ。
 身ごもったことが判ってからも、お民はしばしば、夢に悩まされた。
 得体の知れぬ黒い大きな影に追いかけられる夢。焔に灼き尽くされようとする夢。
 どれも禍々しく、不吉なものばかりであった。
 最近、嘉門は夜よりも昼間に姿を見せることが多い。医者と祥月院から、弱り切ったお民と褥を共にするのを止められているからだ。
 時折、嘉門が欲情に翳った眼でお民を見つめたり、手を伸ばしかけるときはあったが、流石に、これ以上房事を続ければ、お民どころか子の生命にまで拘わる―と宣告されれば、伸ばしかけた手を引っ込めないわけにもゆかないらしかった。
 夜の務めから解放されてからというもの、お民は日毎に体力を取り戻し、腹の子が五ヵ月に入る頃には、あれほどひどかった悪阻もぴたりと治まり食欲も戻った。
 今では、以前と変わりないほどまでに健康を取り戻している。恐らく、嘉門との夜毎の荒淫は、お民の身体だけではなく心をも相当に蝕んでいたのだろう。
 妊娠六ヵ月めを迎えた現在、お民の腹はふっくらと丸く膨らんできて、帯を締めていても、ひとめでそれと判るようになった。時折、腹の子が腹壁を蹴るのさえ自覚できる。
 しかし、腹の子が順調に育っていることは、お民に何の感慨ももたらさなかった。
 嘉門に慰みものにされ続けた汚辱の証明、毎夜、脚腰も立たぬほど容赦なく責め立てられた辛さや哀しさはいまだに消えやらず、お民を苦しめる。
 そう思えば、愛着どころか、かえって厭わしさすら感じるほどだ。
 お民はつと立ち上がり、褥から出た。部屋の障子戸を開き、静かに佇む。
 紫紺の空に紅い月が掛かっていた。
 赤く熟した果実の豊潤な香りが鼻腔をくすぐる。
 この季節、庭の石榴は実りの瞬間(とき)を迎えていた。毒々しいほどに紅い実が幾つも鈴なりになっている樹を、お民はしばらくの間、見上げていた。
 よく熟れた石榴の実を思わせる円い月、不吉なほどに紅く染まった、けれど、この世のものとも思えぬほど美しい月。その月の光を浴びて、石榴の実はいっそうその色を濃く深くしている。
 気の早い虫の声が繁みの向こうから響いてくる。昼間はまだ残暑の厳しい葉月下旬は、夜になっても昼の暑熱の余韻を残している。
 悪夢を見たせいもあってか、うっすらと汗ばんだ額にひとすじ、前髪が張りついていた。その髪をうるさそうにかき上げたその刹那、お民は下腹部からつうっと生温かいものが溢れ出るのを感じた。その何とも厭な感覚は太股をつたい、脚を濡らしている。
 お民は何げなく脚許を見て、小さな悲鳴を上げた。
 血が、紅い血がひろがっている。
 そう、丁度、夜空に昇った今宵の月のように紅く、石榴と同じ色をしたもの。
 私の血が身体から溢れ、大地を不吉な色に染めようとしている。この色はきっと罪の色―。
 私が、私の身体を欲しいままに辱めた男が、犯してしまった過ちを御仏が罰せられたのだ。いっそ、このまま、身体中の血が流れ出てしまえば良い。
 そうすれば、私もやっと死ねるだろう。
 忌まわしい想い出も辛い記憶も何もかも棄て、幸せだった頃の想い出だけを胸にしまって、永遠(とわ)の眠りにつくことができる。
 私の流した血が大地に還(かえ)れば、その血も大地を潤す糧となり、私たちの犯した罪も浄化されるに違いない。