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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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「お民ッ、大事ないか? お民、しっかり致せ」
 嘉門が我を失ったようにお民の身体を揺さぶる。
 祥月院は若い二人を見て、小さな吐息をついた。
「殿、落ち着きあそばせ。ただでさえ、そのように苦しんでおる者を手荒に扱うてはなりませぬ。そっとしておいておやりなさいませ」
 祥月院は初めて聞く穏やかな声音で息子を諭し、お民を覗き込んだ。
「どれ、見せてみなされ」
 片手をつと伸ばし、お民の腹の辺りをそっと触った。手触りを確かめるように手を何度かすべらせた後、嘉門に向き直る。
「母上、お民に何をなさるおつもりでござりますか」
 抗議の口調で言うのに、祥月院は取り合わず断じた。
「何ゆえ、このようになるまで放っておいたのですか、医者には診せたのでございますか」
「い、いえ」
 嘉門が途端に口ごもる。
「武家の暮らしはこれまでと勝手が異なりますゆえ、馴染むのに刻がかかりまする。それゆえの気疲れかと」
 いつになく歯切れの悪い物言いで応えた。
 祥月院は呆れたように言った。
「そなたがお民どのを医者に診せなんだのは、お民どのと閨を共にするを止めだてされると思うてのことでありましょう」
 祥月院は小さく首を振り、嘉門をひたと見据えた。
「お民どのがこのような状態になったのは、いつ頃からにございますか」
「は、確か、ひと月ばかり前からにございます。吐き気がするゆえ、食あたりやもしれぬと当人は申しておりましたが」
 嘉門がふて腐れたように応える。
 祥月院は静かに告げた。
「お民どのを今日中に医者にお診せなさいませ」
「しかし―」
 まだ嘉門が何か言いたげに口を尖らせるのを祥月院は一喝した。
「一時の快楽に我を忘れては、大切な物を失うことになりましょうぞ。殿、このまま、お民どのを放っておいては、生命に関わりますぞ」
「―母上、それは」
 嘉門の端整な面に烈しい愕きがひろがった。
「眼をしかと覚ましなされ。このままでは、お民どのは弱っていくばかりじゃ。そなたは惚れた女子のみでなく、やっと恵まれた世継をも失うことになりかねます」
 そのひと言で、嘉門も漸く合点がいったようだ。
「では、母上は、お民が私の子を身ごもっていると?」
 嘉門はわずかに視線を揺らし、口ごもった。
「さりながら、幾ら何でも早すぎましょう。お民が当家に参って、まだ五ヵ月です。もう少し、せめてひと月くらいは様子を見てはよろしいのではございますまいか」
 それでも煮え切らぬ嘉門に近寄った祥月院の手が嘉門の頬に飛んだ。
「愚か者ッ。そのような愚かな男にこの母が育てたかと思うと情けない。女に現を抜かすのも結構。さりながら、そなたはこの石澤家の主(あるじ)。主たる者、我が血を引く者を残し、その者に東照大権現さまの御世より連綿と続いてきたこの家を託すという大切な務めがあることをお忘れ召さるな」
 祥月院はひと息に言い切ると、今度はお民に言った。
「そなたも殿の御子を宿したからには、これよりは身体を大切にし、健やかなる御子を生むことだけを第一と考えよ。そなたの身は最早、そなただけのものではない。そなたがここに参り、殿のお傍に上がった本来の役割を果たすべきときが参ったのじゃ。さよう心得て、今日よりは養生に務めるように」
 祥月院は冷ややかな瞳でお民を一瞥し、その表情にふさわしい冷淡な声音で申し渡した。その瞳に、労りとか優しさといったものは微塵も感じられない。
 お民は暗澹とした想いに駆られた。先ほど祥月院が見せた優しさは、いっときのものにすぎなかったらしい。この女も自分を所詮は子を生ませるための、石澤家の跡取りを生ませるための道具としてしか見ていない。
 嘉門にとっては欲望を満たすための道具、ただの慰みものにすぎず、その母親にとっては、子を生むための道具なのだ。
 ここには自分を一人の人間として見てくれる者は誰もいない。―それでは、自分があまりに惨めで哀れだった。身体を弄ばれるために閉じ込められ、男の言うなりになる日々。
 その果てに身ごもれば、今度は、何としてでも無事に元気な子を生めと命ずる。それも、ただ石澤家の血筋を守るためだけに。
 お民は嘉門の子をこの世に誕生させるために、それだけのためにこの世に存在し、この屋敷の離れで囚われ人としての暮らしを続けねばならない。
 誰も、一人として、お民の心や気持ちを思いやってくれる人はいなかった。この屋敷の、石澤家の人間は、お民を人ではなく、道具としてしか見ていない。
 お民は、今更ながらに源治が無性に恋しかった。
 その日の昼下がりに、お民は絶望的な真実を知ることになった。祥月院の手配で早速、石澤家掛かりつけの医師が呼ばれ、お民の診察に当たった 。
 その結果、お民の懐妊が明らかになり、その日、石澤家は歓びに湧いた。嘉門の父、先代当主の兵衛(ひようえ)は二十一年前に突如として病死し、嘉門が十五歳で家督を継いだ。その当時を知る老臣たちは皆、感無量の想いで、落涙した者さえいた。しかし。
 当のお民は懐妊の事実を突きつけられた刹那、奈落の底に落ちたかのような烈しい衝撃を受けた。
―もう帰れない。あの男(ひと)に合わせる顔がない。
 嘉門の子を宿し、十月十日胎内で育て生むことを考えただけでも絶望に叫び出したいほどなのに、子を生んで身二つになったからとて、どうして、おめおめと源治の許に戻れるだろうか。
 いくら源治が待っていてくれると言っても、お民はそこまで恥知らずではない。
 医者が薬籠を抱えて帰っていった後、お民はその場に打ち伏して号泣した。
 御仏はこの自分に一体、どこまで残酷な試練をお与えになるのか。最早、ゆく先にひとかけらの希望もひとすじの光さえも見い出せないと知った時、お民の心に初めて死という道が浮かんだ。

 その日の夕刻、お民は自室にいた。常のように障子を開け放し、ボウとしたまなざしを庭に投げていた。残照が熟(う)れた石榴の実のように禍々しいほど紅く見える黄昏刻のことだった。
 夕陽が朱色の小さな花をいっそう濃く染め上げている。
 刻一刻と色を変えてゆく空を眺めながら、お民は泣いていた。これほどの涙を流しても、まだ新たに涙が湧くことに、自分でも愕きもし呆れもする。
 やがて、茜色から紫、群青へと色をうつろわせた空は、闇の色一色へと染まる。すっかり陽が落ち、辺りの風景が宵闇の底に沈み込んだ時、お民は懐からそっとひとふりの懐剣を取り出した。
 黒塗りの蒔絵が施されたそれは、この屋敷に来た日、嘉門から渡されたものだ。武門の女というのは皆、このように護身用として剣を持つのだと教えられた。災いや魔をよけるための守り刀の意味もあるのだとも。
 小ぶりな剣は、鞘と柄(つか)の部分にそれぞれ白い桜花が描かれていて、見事な細工であることは、お民にも判った。さぞ高価なものに相違なかろう。
 いずれ名のある名工の手になるものであろうが、それにしても、嘉門に与えられたこの剣で自ら生命を絶つことになるとは皮肉な話であった。
 鞘から静かに刃を抜き、その切っ先を白い喉許に当てる。その刹那、白刃が月の明かりに煌めいた。刃は己れの喉にピタリとつけたまま、お民は腹部に手のひらを押し当てた。