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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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「―紫陽花? 花火にございますね、この花は花火に似ている、それで?隅田川?と呼び名がついたのでしょう?」
「そうだ、よく判ったな」
 嘉門が得意気に弾んだ声で言った。
 江戸には四季を彩る折々の風物詩があるが、夏に限っていえば、知る人ぞ知る両国の花火―毎年、夏に隅田川の河川敷で盛大に打ち上げられる花火大会がある。
 夜空に咲く大輪の花、ポーンポーンと江戸っ子気質を彷彿とさせる小気味の良い音を立て、一つ、また、一つと闇に次々と花ひらく大花火。シュルシュルとまるで流れ落ちる滝を思わせるような七色の光彩。
 開いては消え、また、消えては開く数々のあでやかな花火がひしめく大観衆の眼を愉しませてくれる。
 隅田川と銘のつく紫陽花を眺めている中に、お民の脳裡に鮮やかに甦る情景があった。
 去年の夏、所帯を持って初めて源治と二人だけで見に行った両国の花火。あの夜、お揃いの浴衣を着て、源治の逞しい腕に自分の腕を絡めながら、お民はこの世の誰よりもきっと自分は幸せに違いない―、そう思った。
 惚れた男の傍にいられる歓びを噛みしめたのだ。
 たった一年前のあの夏の夜が今ではあまりにも遠い。
 今のお民は、一年前のお民ではない。好きでもない男に、この石澤嘉門という男によってさんざん穢されている。
 何より、お民の傍に源治はいない。源治の代わりに眼前にいるのは、お民を慰みものとしか見てはおらぬ男なのだ。
 そう思った刹那、お民の表情が翳った。
「この隅田川というのは、江戸の菊作りを生業(なりわい)とする職人が作ったそうだ。ひとめ見ただけでは、なかなか紫陽花には見えぬが、これからの季節、それこそ花の色が花火のごとく七色に変わるというぞ。これをこの部屋に置いてゆこう。せいぜい眺めて、気散じにすると良い」
 明るい声音で喋っていた嘉門がふと口をつぐんだ。お民の浮かぬ顔を見て、眉をひそめた。
「いかがした? また、気分でも悪いのか」
 お民の眼に涙が滲み、つうっと頬をつたい落ちる。
 泣き声も立てずにはらはらと涙を零す女を、嘉門が憮然と眺めた。
「良い加減に致せッ。そなたのように情の強(こわ)い女は見たことがない。大抵の女は幾度となく膚を合わせれば、少しは靡いてくるものだが、そなたは笑顔一つ見せぬ。全く可愛げのない女だ」
「申し訳―ござりませぬ」
 お民は手のひらで涙をぬぐい、両手をついた。
 嘉門の烈しいまなざしがお民を冷たく見下ろす。
「何だ、その眼は。そなたはいつもそうだ、閨の中ではあれほど奔放にふるまいながら、それ以外では俺を冷めた眼で軽蔑しているように見ている。大方、女に腑抜けた愚かな男よと心で嘲笑(あざわら)っておるのであろうが」
 吐き捨てるように言うと、嘉門は立ち上がり荒々しく部屋を出ていった。
 後に残されたお民は力尽きたように褥の上に倒れ込む。今はまだかすかな緑に色づいた流線型の花びらを涙に濡れた眼で眺めた。

 その翌朝、予期せぬ訪問者があった。
 昨日の昼下がりに、あれほど不機嫌に帰っていった嘉門であったが、夜になって再び忍んでやってきた。昨夜の嘉門は昼間の鬱憤を晴らすかのようにお民を責め立て、朝になっても果てのない情交は延々と続いた。
 折檻のごとき荒淫は、お民の心だけでなく身体をも深く傷つけた。丁度、その訪問者―祥月院が訪ねてきた際も、嘉門はお民の上に重なっていた最中であった。
 既に陽は高くなり、昼近くなっている時刻である。先触れもなく祥月院が訪ねてきたからといって、非常識とはいえなかった。
 一糸まとわぬ姿で絡み合っていた二人の耳に、金属質な高い声が聞こえ、更に続いて、狼狽える侍女の声が聞こえた。
「お待ち下さいませ、ただ今、取り込み中でございます。今しばらくのご猶予を」
「何が取り込み中だと申すのじゃ。このような時刻に、まさか布団を被って寝ているわけでもなかろう」
 居間を隔てた控えの間でしばらく押し問答があり、やがて、音を立てて襖が開いた。
「祥月院じゃ、入りますぞ。この頃、具合悪しきと聞くが、いかがか―」
 ふっと言葉が止む。
 一瞬の後、部屋内にひろがる光景を眼の辺りにした祥月院は蒼褪めた。
「これは、一体いかなることか」
 寝乱れた褥の上にはお民が素肌に白い布を巻きつけただけのしどけない姿で座っており、その傍らで上半身裸の嘉門が怖ろしく不機嫌な表情で胡座をかいている。
「殿、これはいかなるご了見にございましょうや? この時間には表におわすはずの殿が側女の許に―しかも、その女子と同衾しているなぞとは」
 祥月院は口にするのもおぞましいというように形の良い眉を寄せた。
「申し訳ございませぬ。―すべて、私が至らぬせいにございます」
 お民は端座し、両手をついて深々と頭を下げた。
「そのようなこと、そなたがわざわざ申さずとも承知しておるわ。大方、そなたが淫らにも殿にしなだれかかり、殿をこのような時間までお引き止めしておったのであろう」
 祥月院が我が意を得たりとばかりに頷くと、
「それは違いまする」
 と嘉門が脇からむっつりと言った。
「私がここにとどまりましたのは、何もこの者に頼まれたからではございませぬ。私自身がお民を抱きたい、欲しいと思うたゆえにございます」
「ああ、何と嘆かわしい。この由緒ある石澤家の当主が人前で、しかも母の前で、そのようなあからさまな物言いをなさるとは。全く、いやらしい!」
 祥月院の怒りは凄まじく、嘉門のそのひと言でますます、煽られているようでもある。
「これ、お民。そなたもそなたじゃ。殿のお傍に仕える女の心得として、殿が君子としてふさわしきおふるまいをなさるように心配りいたすのがそなたの務めであろう。それを何じゃ、殿のご寵愛を良いことに、朝っぱらから殿に縋りつき、淫らなふるまいに耽るとは。そなたも少しは石澤家の女として、慎みを持つが良い」
 キッとして柳眉を逆立てるその物凄い形相は、さながら般若の面のようでもある。なまじ美しい女性だけに、そのように殺気立つと凄惨さが際立った。
「どうか、こたびだけはご容赦のほど、お願い申し上げます。どうか、どうか、お許し下さいませ。すべては私の落度にございます」
 暗に嘉門は悪くないのだと、ひたすら嘉門を庇い詫びるその姿を、祥月院は何か考えるような眼で見つめていた。
 この時、お民は言い訳や言い逃れめいたことは一切口にしなかったのである。その潔さは、存外にこの謹厳で気位の高い女の心を打ったようであった。
 元々、一人息子の嘉門を溺愛し、大切に育ててきたのだ。
「どうか、こたびだけはお許しを―」
 そこまで言った時、お民がふいに言葉を途切れさせた。口許を片手で押さえ、苦しげに咳き込み始めたのだ。
 お民は、その場にうずくまり海老のようにか細い身体を折り曲げて咳き込み続ける。この頃はろくに食事をしていないため、吐き気はするものの、実際には何も吐くものがなく、苦い胃液が唾に混じって出てくるだけなのだ。
 涙眼になって咳き込み続けるお民に、祥月院が声をかけた。
「いかがした?」
 気遣わしげに言って近寄ろうとする。
 その祥月院を嘉門が横から突き飛ばすようにして押しのけ、お民を抱き起こした。