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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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―逢いたい、お前さん。逢いたいよ。
 夜半、お民は衾(ふすま)をすっぽりと被って、声を殺して布団の中で泣いた。控えの間で眠る侍女に泣き声を聞かれたくはなかった。
 泣いている中に、お民は再び眠ったようだった。
 だが、この後、更に残酷な運命がお民を見舞うことになると、この時、お民は考えてもいなかったのである。

     【伍】

 初夏の爽やかな風がそっと頬を撫でて通り過ぎてゆく。その拍子に、お民の額にかかったわずかな前髪が揺れた。
 お民が石澤嘉門の屋敷の懸かり人となってから、はや四月(よつき)が流れた。この屋敷に上がった日には満開に咲き誇っていた紅梅の花が散り、水無月に入った今は代わって鮮やかな朱色の花を石榴の樹が咲かせている。
 この樹が実を結ぶのはまだ先のことで、秋まで待たねばならない。しかし、眼にも眩しい朱(あけ)の花をいっぱいつけた今の眺めも、いかにも初夏のこの季節にふさわしく、いつまで眺めていても飽きるということがない。
 石榴の実はよく知られているように、大ぶりでよく熟すと割れ、中から紅瑪瑙のようなつぶらな実が現れる。むろん、紅い小さな実は食用にもなる。
 子どもや安産の守護神鬼子母神がこの実を手にしていることから、石榴の実は多産や子孫繁栄、安産の守り神として信仰されている。
 石榴に関していえば、花よりもこの実の方が一般的には有名だ。しかし、よくよく眺めてみると、小さな朱色の花を無数につけたその樹の佇まいは妙に人の心を惹きつける。
 お民はもう朝からずっと、この花を見ていた。初夏のこととて、朝夕はまだひんやりしているものの、日中は汗ばむほどの陽気になる。まして昼下がりの今は、こうして部屋の障子戸を開け放していても、十分快適に過ごせた。
 吐き気は依然としてまだ続いていたけれど、ずっと横になってばかりいるのも退屈になったので、思い切って起きることにした。
 そろりと上半身を起こすと、また、胃の腑の奥から不快感がせり上がってくる。お民は軽く咳き込みながら、厭な吐き気が治まるのを辛抱強く待った。
 この頃、どうも体調が良くない。
 ひと月ほど前から突如として始まったこの吐き気は、今日までずっとお民を苦しめ続けてきた。
―私は一体、何の病気なのだろう。
 ちょっとした体調の変化などは、環境が著しく変わったこと、意に添わぬ日々で鬱々と暮らしていることなどによるもの―と、幾らでも言い訳はある。
 が、数日経っても、いっかな治まる風のないこの病は、単に体調を崩したからのみとは考えがたかった。
 もしかしたら、自分は何かの病なのかもしれない。それも、胃の腑を病んでいるだろう。
 取り返しのつかない、治る見込みのない病だとしたら、そう考えただけで、お民は恐怖に気が狂いそうになる。
 もとより、嘉門によって陵辱され続けたこの身だ、生命が惜しいわけではない。しかし、もし、ここで生命尽きるようなことがあれば、源治に二度と逢うことは叶わなくなる。
 こんな有り様では一体、いつ源治の許に戻れるのか、否、果たして本当に戻れるのかどうかすら疑わしい。一日一日が十年のように思えてならない。
 逢いたかった。源治に、逢いたい。
 頑固な吐き気は、お民を始終苛み、この頃では三度の飯もろくに喉を通らなくなり、お民はこの屋敷に来たときよりは、一回り痩せた。嘉門の寵愛を受けてよりいっそう艶めいた美しさが、かえってやつれたことで際立ち、凄絶さすら漂わせている。
 ここ半月もの間は寝たり起きたりの生活で、床の中にいるときは、いつもこうやって庭を眺めてぼんやりと過ごしていた。
 咲いては散ってゆく花をここから眺めながら、お民はずっとただ一人の男のことを想い続けているのだ。ただひたすら源治に逢いたいと願った。
 ろくに食べていないため、体力そのものもなくなってきている。一人で立って歩くことすら、ままならない有り様だ。
 それなのに、嘉門は今でも変わらず毎夜のように訪ねてきて、お民を抱く。これほど衰弱しているお民を見ても、医者に診せるわけでもなかった。
 情事の最中に烈しい嘔吐感に襲われたお民を容赦なく扱った。嘉門の身体を押しのけて部屋の隅へ這っていって咳き込み続けるお民を、乱暴に褥に引き戻したことさえある。
 嘉門にとって、自分は本当に単なる慰みもの、快楽の対象でしかないのだろう。最初からこの男に何を期待しているわけでもなかったけれど、やはり、自分がただの性欲のはけ口としてしか見られていないと思うと、辛くやり切れない気分になった。
 お民が床から起き上がる気力もないほど弱っているときは、流石に顔を見ただけで帰ってゆくこともあったが、今夜はどうなのだろう。また、吐き気をこらえながら、男に身体中を弄(いじ)られるのかと思うと、考えただけで涙が出そうになった。
 と、ふいに襖の開く気配がした。
「今日は具合はどうだ、そうやって起きているところを見ると、気分は良さそうだな」
 声がしたかと思うと、嘉門が枕辺にゆったりと座った。
「きれいだな。―石榴の花などこうしてゆっくりと見たことなどなかったが」
 嘉門はそれでなくとも上背のある身体で伸び上がるようにして庭を眺めている。
「ここはいつも静かだ。そのせいもあるのかもしれないが、ここに来て、そなたの側にいると心が落ち着く。だが、俺はそなたの笑うた顔を見たことがない」
 嘉門がお民の顔をじっと見つめた。
「―泣いていたのか」
 どうやら、うっすらと涙ぐんだ顔をしっかりと見られてしまったらしい。
「俺は、そなたに苦痛を与えているだけの男なのだな。教えてくれ、お民。俺は一体どうしたら、そなたを笑わせてやることができるのだ?」
 嘉門は独り言のように呟くと、後生大切そうに抱えてきた大きな包みをお民の前に押しやった。美しい紅色の薄様紙で丁寧に包まれたそれを嘉門自ら開いてゆく。
 何事かと見つめていると、中から現れたのは蒼い焼き物の鉢に植わった大ぶりの花だった。不思議な形の花だ。
 注意深く見ていると、紫陽花に似ておらぬこともないが、それにしては花の形が奇妙なように思える。
 興味を引かれ、嘉門に問うとはなしに問うた。
「これは―紫陽花にございますか? 葉のかたちは紫陽花によく似ておりますが、花が何やら違うようにも見えますが」
 流れるような花びら、その形は菊にも似ている。
 お民の問いに、嘉門は口許を綻ばせた。いつも何を話しかけても、反応に乏しいお民の関心を引いたことがよほど嬉しかったのだろう。
「珍しいであろう」
 まるで親に久方ぶりに賞められた子どものように喜色を露わにしている。
「これは?隅田川?という銘がある。今朝方、伯父上の方より珍しき花が手に入ったとわざわざお届け下されたのだ」
 老中松平越中守親矩(ちかのり)の実妹が嘉門の母祥月院である。倅のおらぬ親矩は、このたった一人の甥を実の息子のように可愛がっている。
 嘉門自身は五百石取りの直参にすぎないが、いずれは親矩の養子となり松平家を継ぐのではないかとまで囁かれているほどだ。
「ほれ、よう見てみい。この流れるような花の形が何かに似ているであろう」
 お民は嘉門の指し示した花を見て、閃いた。