石榴の月~愛され求められ奪われて~
お民は果てしなく続く快楽地獄の中で、もがき苦しみ、喘いだ。
「お民、今だけは俺のものだ。他の誰にも渡しはせぬ」
普段は静まり返った嘉門の瞳に何ものかに憑かれたような光が潜んでいる。
嘉門は熱を帯びた瞳で身をのけぞらせる女を見下ろし、女の奥へといっそう深く己れ自身を沈ませる。
お民が意識を取り戻したのは、既に夕刻近い時分であった。嘉門と二人きりで湯殿に籠もっていたのは数時間にも及んだ。湯舟で何度も交わった後、更に花びらを敷いた褥の上でも烈しい情交を重ね、お民はついには気を失ってしまったらしい。
ゆっくりと眼を開けたお民の枕辺に、胡座をかいて座る嘉門の姿があった。
「眼が覚めたか」
嘉門は静かな声で言うと、傍らの盆を引き寄せた。
盆の上には水差しと湯呑みが載っている。
湯呑みに水差しから水を注ぎ、お民に差し出した。水差しも湯呑みもギヤマンでできているらしく、部屋の障子戸を通して差し込む蜜色の夕陽を受けて、透き通ったガラスが温かな色に染まり、きらめく。
その美しさに思わず見惚れていると、嘉門が言った。
「呑め、喉が渇いているだろう」
お民は頷いて、素直に嘉門の汲んだ水を呑んだ。
ほのかな甘さを含んだ水が心地良く喉許をすべり落ちてゆく。
お民の白い喉が動くのを眺めながら、嘉門が唐突に口を開いた。
「俺を好きになってみぬか」
思いもかけぬ科白に、お民は息を呑む。
「そなたが俺を嫌うているのは知っている。だが、俺はそなたに惚れている。できることなら、手放したくない。そなたには、ずっと傍にいて欲しいのだ」
お民は顔を上げ、しばし嘉門を見つめた後、小さく首を振った。
「―ごめんなさい。私にはできません。私には待っている男(ひと)がいるから。必ず帰るって、その男に約束したから、ここにはいられません」
「それは、あくまでもここに来る前の話であろう? そなたを哀しませたくはなかったから、このことは言うまいと思うていたが、そなたがそこまで俺を拒むというのであれば、俺も申そう。お民、そなたの身体はこの俺に既に慣れ親しんでいることに、そなたは気付いておらぬのか? そなたが仮に今、その男の許に戻ったとしても、最早、元どおりに、昔のように共に暮らせるはずがない。俺に抱かれることに馴れ切ったそなたは必ずや俺を求めるはずだ。そして、そなたの恋しい男はそんなお前を必ず憎むようになるだろう。他の男に数え切れぬほど抱かれたそなたを男はけして以前のように受け容れはしない」
「―」
お民の眼に涙が溢れる。あまりにも酷い科白だった。
嘉門がお民を冷めた眼で見つめ、断じた。
「その男がそなたに何を申したかは知らぬ。さりながら、そんなのは所詮、綺麗事にすぎぬ。もし、俺がその男であったとしても、他の男に自ら脚を開くようになった女を昔と同じようには愛せないだろう。きっと、その女を許せず、しまいには憎む。よく考えてみるが良い、男に疎まれ憎まれてもなお、そなたは男の許にとどまり続けられるのか。惚れた男を嫉妬という生き地獄の苦しみへと追い込み、自らも愛と憎しみの間でもがき苦しむことが判っていながら、それでもなお、そなたは男の許に戻るというのか? ここにいれば、そのような無用の苦しみを感じることもなく、俺の傍で何不自由のない暮らしが送れる。そなたが望めば、正式な室に直しても良い。そなたは俺の子を生み、俺の妻として生きてゆくのだ」
「もし、どうしても」
お民は濡れた瞳を嘉門に向けた。
幾ばくかの逡巡を見せ、口を開く。
「もし、どうしても、一年を過ぎてもここにとどまれと仰せになられるのであれば、私は自ら生命を絶ちます。たとえ生きながら焼き殺されようとも、私は殿のご命令に従うことはできませぬ」
覚悟を秘めたその瞳の悲愴なまでの輝き―、そのときの自分の何もかもが嘉門を魅了していることに、迂闊にもお民は気付いてはいなかった。
「俺はそこまでひどい男ではないつもりだが」
嘉門はフッと自嘲気味に笑った。
己れの言葉で嘉門がいかほど怒り狂うかを覚悟していただけに、お民はかえってその恬淡とした嘉門の反応が怖かった。静かすぎるその瞳が不気味に思えたのだ。
身を竦ませるお民を横眼で見て、嘉門が立ち上がった。
「今宵はゆるりと休め。流石に俺も疲れた。今夜は一人で寝る」
その言葉の意味を漸く理解したお民の頬が染まり、うつむいたのを感情の読み取れぬ瞳で見つめる。
次の間へと続く襖に手をかけた嘉門がつと振り返った。
「そんなに俺が嫌いか?」
何かに耐えるような表情、振り絞るような声。そのどちらもが、いつもの彼には似つかわしくないものだ。
お民が何か応えようとする前に、襖が音を立てて眼前で閉まった。
―そんなに俺が嫌いか?
嘉門の投げた短い問いかけが耳奥でこだまする。ああ言ったときの男の一瞬見せた淋しげな横顔が何故か心に残った。
お民は、ギヤマンの湯呑みを両手で包み込み、そっと揺らした。
落日の瞬間(とき)を迎えて更に濃くなった茜色を映したグラスの中で夕陽の色が躍る。
お民はいつまでも、そのグラスを手にしたままでいた。
もしかしたら、石澤嘉門という男は心淋しい人なのかもしれない。愛せる人もおらず、愛を返してくれる人もいなかった。そんな彼の人生の中で、もし本当に嘉門がお民を愛してしまったのだとしたら。
お民は多分、嘉門にとっては残酷な女ということになるのだろう。それでも。
お民には源治がいる。たとえ嘉門が言うように、源治が他の男の愛を受けた女を元のように受け容れてくれなくても、嫌われたとしても憎まれたとしても。お民は源治の元に戻るつもりでいる。
ある意味で、嘉門の言っていることは正しいのだろう。
嘉門によってさんざん穢されたこの身体は最早、ここに来る前のお民と同じではない。
そんな女を源治が昔のように見られなくなったとしても、少しの不思議もないのだ。
嘉門の慰みものとなった自分が源治の許に戻る資格なんて、もうないのかもしれない。また、嘉門と過ごす夜に馴れ、悦びすら感じるようになったこの身体が、真っ先にお民自身の心を裏切るかもしれない。
そうなれば、源治は、お民を淫らな女と罵り、蔑むだろう。自分を裏切ったと、お民を憎むようになるに違いない。
自分が戻ることで起こるだろうすべての不幸を予想しても、お民はやっぱり源治の許に帰りたい。
―だって、私、お前さんのことを大好きなんだもの。私って、身勝手で我がままな女なのかしら。
めぐる想いに応えはない。お民は物想いに耽りながら、深い眠りの底へと落ちていった。
その夜は、久しぶりに手脚を伸ばしてぐっすりと眠ったせいか、怖ろしい夢は見なかった。嘉門の傍で夜毎見る夢は、お化けのような蜘蛛に追いかけられたり、紅蓮の焔に灼き尽くされようとする怖い夢ばかりで、いつも夜半にひどくうなされてめざめることが多い。
夢の中で、その夜、お民は源治に逢った。
ひどく哀しそうな顔をした源治が物言いたげにお民を見つめている。恋しい男に逢えたのは嬉しかったけれど、あんな辛そうな良人の顔を見るのは初めてだったので、気がかりだった。
その夜の夢は怖くはなかったけれど、哀しい夢だった。
作品名:石榴の月~愛され求められ奪われて~ 作家名:東 めぐみ