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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 しかも指先に近づくほど、そのゾッとするほどの冷たさは増してゆくようだ。
 冷え切った指に触れられた刹那、お民は我が身までもが氷と化してしまうかのような恐怖を憶え、思わず嘉門の手を振り払った。
 夢中で逃げようとするのを背後から抱きすくめられる。
「いやっ」
 泣きながら抗うお民の耳許で男の吐息混じりの濡れた声が響く。
「逃げて、どうするというのだ?」
「―」
 お民の眼から熱い雫が零れ落ちる。それでもなお烈しく抵抗を続けるお民の首筋に唇を這わせながら、嘉門が囁いた。
「俺の子を生め、良いな」
―お前さん、私、やっぱり、こんなのは、いや!! お前さん―、お願いだから、助けて。
 お民は心の中で恋しい良意人に助けを求めた。だが、源治にその心の叫びが伝わるはずもない。
 嘉門が枕許の行灯をふっと吹き消す。途端に外の闇が閨の中にまで忍び込んできて、お民のすすり泣きや助けを求める声は、ぬばたまの闇に呑み込まれる。
 庭の紅梅がむせるように咲き匂う夜のことだった。











 源治は声にならない声を上げて、ハッとめざめた。
 長い、怖ろしい夢を見ていたようだ。
 喉の乾きを憶えて緩慢な動作で身を起こす。隣に一つ布団で眠るはずの恋女房を無意識の中に手さぐりで探していて、ふっとお民が今夜からはもういないのだと今更ながらに思い知らされる。
 今朝、別れたばかりなのに、もう十年、いやそれ以上もの間、離れ離れになっているような気がしてならない。
 今頃、お民はどうしているだろう。そう考えて、源治は怖ろしい考えにおののいた。
 何故、自分はそんな大切なことを忘れていたのだろう。いや、忘れていたわけではない。
 敢えて考えないように、頭から追い出していただけだ。
 この夜更け、お民は恐らく石澤嘉門という男に抱かれているに相違ない。お民は石澤の屋敷に何をしにいったわけでもなく、嘉門の女になるために行ったのだ。
 そして、源治は良人でありながら、自らを犠牲にしようとする妻を結局、守ってやれなかった。
 源治の脳裡に忌まわしい光景が鮮やかに浮かび上がる。
 見も知らぬ男の膝にまたがり、あられもなく白い身体をくねらせる女。女は背を向けているため、源治には女の顔は定かではない。
 だが、何度もお民を抱いた源治には、あの豊満な肢体の女がそも誰であるか知っている。
 その中(うち)、女がふと首をねじ曲げるようにして振り向いた。その間にも男は女を下から烈しく突き上げる。女が形の良い眉を寄せ、切なげな表情であえかな吐息を洩らした。
「止めろ―ッ」
 土間に降り立った源治は湯呑みを力一杯投げつけた。
 たまらない絶望と怒り、情けなさが身の内で烈しくせめぎ合う。くずおれるようにその場に蹲り、のろのろと砕け散った破片(かけら)を拾い上げようとして、?ツ?と小さく呻く。
 右の人さし指を切ったらしく、細く赤い血が糸を引いてしたたり落ちていた。その夜目にも鮮やかな血の色を眺めている中に、源治の中に凶暴な感情が湧き起こっていた。
―いっそのこと、お民を殺して、俺も―。
 そうだ、そうすれば良かったのだ。
 こんなに苦しむのであれば、お民をゆかせるのではなかった。お民が嘉門の許に行くと言った時、お民を殺して、自分もすぐに後を追えば良かったのだ。
 今からでも遅くはない。源治は普段はしまっている匕首を取り出してきて、手にした。
 この刃でお民の白いふくよかな胸を刺し貫き、自分もまた、同じ刃で生命を絶つ。最早、この胸の苦しみから逃れるためには、それしかすべはない。
 源治が匕首を手にして立ち上がったその時、源治の手にふわりと誰かの手のひらが重ねられたような錯覚を憶えた。
 やわらかなこの感触は―。
「お民ッ!?」
 源治は慣れ親しんだ女の手の温もりを確かに己れの手の上に感じたのだ。
 刹那、源治の瞼に今朝方、別れたばかりのお民の顔が甦った。今にも泣き出しそうな顔で、それでも最後だから泣くまいと必死で我慢していた―。
 自分を犠牲にしても、石澤という男の無茶な要求を受け入れ、徳平店を守るのだと言っていたお民。
 皆の生活を、徳平店を守るために人柱になったも同然のお民の生命を奪うような資格など、源治にはない。
 今、己れがあの不器用で、優しすぎるほど優しい女にしてやれるたった一つのことは、ここで、あの女がその身を挺してでも守ろうとしたこの徳平店で彼女を待つだけだ。
 一年後、お民が晴れて戻ってきた時、ここで笑顔で出迎えてやること、それがあの女に示せる唯一の真心だろう。
 たとえ、今、源治が匕首を懐に忍ばせて石澤の屋敷に乗り込んだとしても、本懐を遂げるどころか、無礼討ちになるのが関の山といったところだろう。それに、自分の醜い嫉妬―お民が石澤に抱かれていることへの妬心だけで、お民を死出の旅の道連れにするとは、とんだ身勝手な話だ。
 お民だって、今は辛い想いに―惚れてもおらぬ男の慰みものになるという汚辱の想いに耐えているのだ。自分だけが死ぬほどの苦しみや葛藤に苛まれているわけではない。
 待とう、ここであの女の帰りをひたすら待とう。何より、お民と自分は約束したではないか。?げんまん?と言って指を差し出してきたときのお民の泣き顔を思い出し、源治は込み上げる涙をこらえた。
 もし、お民が帰ってきた時、源治がここにいなかったら、あの女は泣くだろう。とことんお人好しで、優しくて、いつも自分より他人のことばかりにかまけている女。
―人生で最高の、たった一人の女に俺は出逢ったんだな。
 お民こそ、俺のたった一人の女だ。だからこそ、お民との約束を破るわけにはゆかない。
 源治は明かり取りの窓から差し込む細い光に眼を細める。
 紫紺の夜空に琥珀色の眉月が浮かんでいる。どこからか、かすかな梅の香が夜風に乗って運ばれてきた。

     【四】

 どうやら浅い微睡みにたゆたっていたようだ。お民はうっすらと眼を開く。
 ここは一体、どこなのだろう。ゆるりと視線をめぐらしてみる。まるで細い一本の銀糸を思わせるような鎖が四方に網の目状となって張り巡らされており、その銀の糸の至る所には露の煌めきを思わせる小さな光の粒が宿っていた。
―きれい。
 お民は思わず眼を見開き、刻一刻と様々な色に染まり、光り輝く露の雫を眺めた。
 が、次の瞬間、烈しい驚愕と衝撃が襲った。
 きらきらと輝く光の雫に触れようとして差しのべた手のひら、いや、腕そのものが微動だにしないのだ。
―何故? どうして?
 著しい恐慌状態に陥りながら、お民は懸命に手脚を動かそうとするが、一向に動かない。
 ふと自分の手脚を眺めやり、お民は絶望の呻きを上げた。煌めく光の粒を宿した銀の糸がお民の身体中―手脚に絡みついている。
 いや、糸ではない、これは鎖だ。頑丈な、鋼(はがね)の細い鎖がお民の身体中に纏いつき、離れない。何とか縛(いまし)めから逃れようともがけばもがくほどに、鎖は執拗にお民の手や脚に絡みついてきて、これでもかといわんばかりに締めつけてくる。
 シュルル・・・という不気味な唸り声が低く耳に聞こえ、お民は我に返った。わずか前方に、巨大な―大の大人数人ほどの大きさをした蜘蛛が待ち構えていた。