猫のムサシと猫のコジロウ
老人の足元には見本として描かれたいくつかの絵が並べられている。決してうまいとは言えない絵。正直、これで二千円は高いんじゃないのと思ったが、しばらく見ているうちに佐織は何とも言えない感覚に包まれた。
骨太なデッサンで、一見ガサツにすら見える犬猫の絵。しかし、その犬、猫たちが生前、野山をかけまわり、こたつで気持ちよく寝て、飼い主に愛されながら一生を終えた。そんな温かい情景を想像させてくれる絵なのだ。
佐織は老人の絵に魅入られてしまった。そして、今日、ここへやってきた自分の意志を思い出し、決心して言った。
「私の、死んでしまったムサシを描いてください」
9.
老人は佐織に猫の大体の生年月日と体の特徴を訊いた。
「白と黒のツートンで、割合はだいたい半々。顔は、左右の目と耳の部分が黒で、鼻筋から胸までが白。目がクリっとして――」話しているうちに佐織は懐かしくなった。
最近、ムサシのことをあまり考えないようにしていたから。昔は撮った写真を何度も見返したりしたものだが、今はそれを見るのもつらい。楽しい思い出は、ムサシがいなくなった瞬間、辛い思い出にもなったのだ。
老人は筆を動かす間、絵を描くのに関係ないムサシの個性についても色々と訊いてきた。きっとこれはサービストークなんだろうなと佐織は思った。
何にでもダイブするのが好きだったこと。自分がつらい思いをしているとジッと傍にいてくれたこと、布団に入ってきてくれたこと、一人ぼっちの自分に生きる目標を与えてくれたこと、なにより大切なパートナーだったこと。
一人で想像したら泣いてしまいそうな思い出なのに、どうしてか、やさしい微笑で、小さく頷きながら話を聞くこの老人の前だと、心が躍るように話し続けてしまう。
佐織がまだまだ話し足りないと、思い出の続きを語ろうとしたとき、突然、老人の表情から笑みが消えた。そして、険しい顔をしながら、一瞬、鋭い目で佐織を見やると、今度は絵のほうを向いて何やら考えている。
「わたし何か、失礼なこと言っちゃったかな……」
老人は佐織をもう一度見ると、ゆっくりと筆を置いた。そして半分ほど描き上がった絵の両端をつまんで凝視し、涼しげに目を細めたあと、佐織に向かって静かに言った。
「この絵は……、キャンセルさせてくれ」
え? どうして? さっきまであんなに楽しく……
「すみません、私、何か失礼なこと言ってしまったでしょうか? それだったら謝ります」
「いや、違う。お嬢さんは何も悪くない。ただ、これ以上、この猫を描くことはできない。どうしてもというなら、もう少し待ってもらうしかない」
「ど、どういうことですか? 正直に言ってください。わたし、失礼なことを言ったのでしょう? 本当にすみません」
「いやいや、本当にお嬢さんは悪くない。絵は完成してないからお金は返すよ」
「で、でもっ!」
あきらめずに詰め寄る佐織に、老人は困ったなという表情をする。
「うーん。それなら……」
老人は描きかけのムサシの絵をビニール袋にしまい、佐織に二千円を返しながらこう言った。
「もし明日も来る気になったら来るといい。わたしはここにいるから。でも、今日はこれで引き取ってくれ。すまない」
佐織は納得できなかったものの、これ以上話しても老人が絵を描くのを再開してくれそうにはないと思い、しぶしぶ露店をあとにした。
ここのところ学校こそ休まず登校しているものの、それ以外は引きこもりがちでイベントらしいイベントがなかった佐織は布団に入っても寝つけず、今日の〝事件〟について考え込んでいた。
私、どんな失礼なことを言っちゃったんだろう。あの老人が話しやすくて安心できたので、あふれ出る思い出を次から次へと話してしまった。それだけに記憶を辿るのにも苦労する。
「あれ話したでしょ、それからあのことを話して、次に……」と考えていたとき、佐織の脳裏に三つの言葉が引っかかった。
「今、生きてて近くにいるなら、そいつをちゃんとみてやったほうがいい」
「どうしてもというなら、もう少し待ってもらうしかない」
「もし明日も来る気になったら来るといい……」
待ってもらうって? それは明日まで絵を描くのを待つってこと? それとも……。それに、明日も来る気になったらって……。どういうことだろう……。
考え込んで体が熱くなり、とても眠れそうもないと感じた佐織だったが、どうやら明け方あたりに寝入ったらしい。しかし、ほとんど寝ていないのに、目覚ましもかけていないのに、なんだかだんだん意識がはっきりしてくる。
部屋の外が妙に騒々しい。ガシャガシャ、ガリガリッ。やり過ごして寝ようとしたが、ガリガリ音は止む気配がない。
「もう、うるさい! こんな朝早くに!」。
心の中で叫んだ刹那、
佐織の心は一瞬で掻きむしられるような、どんよりとした感覚に陥った。心臓が高鳴り、全身に鳥肌が立つ。
「……う、うそ、いつもの夢だよ、うそ、うそ、うそ……」
もう、夢には騙されない。信じて喜んだって、どうせこれは夢なんだ。目が覚めて、突き落とされるのはもう嫌。本当に。
必死に思い込もうとする佐織。でも、裏切られ続けた七百日余の朝とは明らかに違うものを佐織は感じている。そして、体を震わせながら起きあがった佐織は、一歩、二歩と窓際に近づく。ムサシがいなくなってしばらくしてから窓のカギは閉めるようになった。だから入ってこれない。リアル……。
ガクガクする足で必死に体を支えながら佐織はゆっくり進む。
既に涙が浮かぶ佐織の瞳には、カーテンの向こうで忙しく動く小さな影が滲んで映っていた。そして、自らの鼓動と脈動で聞こえづらくなっている佐織の耳に、懐かしい鳴き声が入ってくる。
「ミャアー! ミャアー!」
佐織は加速して一気にカーテンを引っ張った。
「……」
そこには泥だらけになりながら、必死の形相で佐織に向かって鳴き叫ぶムサシの姿があった。
声がでない。一瞬で大粒の涙こぼれ、それがとめどなくあふれる。
鍵をはずし、窓を開け、飛び込むムサシを抱きしめると、ムサシは苦しそうにして佐織の腕をすり抜けた。そして、かつてないほどの大声で鳴きながら、佐織の足に頭をぶつけては、強く強く擦りつけた。
今度こそ夢じゃない……。
生きていてくれたんだ。覚えていてくれたんだ。帰ってきてくれたんだ……。
二年と一カ月ぶりの再会だった。
10.
掃除を終えた優希也は亡き祖母が暮らした家の中をもう一度一通り見回す。きれい好きな人だったのに、晩年は体が思うようにならず、納得いくまで掃除ができなかったはず。自分が世話をしにきたものの、元来、大雑把な優希也の掃除は、とても祖母が満足するようなものではなかっただろう。
遺品の整理などはおいおいやるとして、まずは気持ちよく天国に送り出してやりたい。家具などはそのままにしておこうと思っている。しばらくしたらここへ引っ越し、住むつもりだから。
一つ一つの部屋を開け、やり残したことがないか確認する。と、箪笥の上に、いつも置いてあるものの、一度も中を見たことのない缶の箱があるのが目に入る。
作品名:猫のムサシと猫のコジロウ 作家名:ねこたねこ