猫のムサシと猫のコジロウ
ずらりと並んだ豪華な商品、栄養を考慮したフードを見ると、なぜか喜久子は切なく、哀しい気持ちになるのだった。
「すごい世の中になったんだねぇ。あのとき、もしこういう時代だったら――」ただただそう思う。
どれにするかと聞かれてもどれも選ぶことができない。結局、喜久子は当面のフードとちぎれかかっている首輪の代わりだけ買って店をあとにした。
そこから喜久子とコジロウの生活が始まった。
5.
小さいとはいえ二階建ての一軒家に暮らしている喜久子だが、脚の痛みや持病があるため、ほぼ一階の居間だけで寝起きしている。猫は好奇心が旺盛であちこちをパトロールする習性があるのだが、コジロウは喜久子の傍をあまり離れなかった。いつも喜久子のいる居間にいて、夜も喜久子の枕元にある優希也が作ってくれた段ボールのベッドで寝た。
居間で喜久子が休んでいると、コジロウは敷いてある座布団相手に一人で遊んだ。お尻を振ってモーションをかけては、ダダッと座布団の下に勢いよく突っ込む。紐や糸が落ちていると、それにもじゃれて一人興奮状態になる。
だから喜久子はよく手近なものでこよりを作ってあげた。それに飛びつくコジロウを見ると喜久子はつい笑ってしまう。一人で家にいて笑うのはいつ以来だろうと思い返してみた。それは、たぶん初めてのことだった。
優希也が来る日、体調が良いときは以前から一緒に買い物に行くこともあった。もちろん、買い物は優希也がやり、喜久子はどこかのベンチに座って待つだけなのだが。たまには外の空気を吸ったほうがいいという優希也の心遣いだった。
前まで喜久子はこの買い物に出ることが億劫だったのだが、最近は少し楽しみにするようになっていた。それは帰宅時にコジロウが大急ぎで玄関まで走ってきて出迎える姿が、たまらなく愛しく、大好きだから。
一人、床にふすことの多い喜久子にとって、自分を必要としてくれる、自分を待っていてくれる存在のあることは、代えがたい喜びとなっていた。そのあとは、週に一度のお楽しみとして優希也が用意してくれている猫おやつをコジロウにあげるのだが、喜久子はそれも好きだった。
「待たせたねぇ、はい、おあがり」
おいしそうにガツガツとご飯を食べるコジロウを見て喜久子はいつも手を合わせて感謝した。たくさん食べる猫を見ることは、喜久子にとっては特別な意味があることだから。
喜久子の生活は、見かけ上は少し変わっただけだったが、心もちは大きく変わっていた。具合が悪くて寝ている時に感じていた不安感や恐怖感がだいぶ薄れたような気がしたのだ。いつも近くにいるコジロウの体温に勇気づけられ、ともすれば沈んでいくだけだった気持ちが、前より高い位置で安定するようになっていた。
喜久子はコジロウを放し飼いにしていたが、ここへ流れ着くまでに相当恐い目にあったのか、庭から外へ出ることは一度もなかった。
その庭で、ときどきコジロウは個性的な仕草をした。あるとき喜久子がコジロウにご飯をあげようと探していると、コジロウの気配がない。いそうな場所を見て回り、声もかけたが見つからない。
ついに見つけたコジロウは庭で一番高い木の枝に上り、喜久子の自宅から見える一番高い建物である電波塔の方角を眺めていた。庭に降りる喜久子の足音に気付くとコジロウはダッと木から降り、喜久子にすり寄る。そんな光景が何度かあった。
猫は外を見るのが好きな動物。けれど、他にもたくさん木はあって、猫が乗れる安定した塀もあって、人の動きが見られる方角もたくさんあるのに。
喜久子はコジロウの性癖を不思議に思っていた。あっちに何かあるのかしらと。優希也に脚立を使って見てもらったこともあるが、はるか彼方にそびえる電波塔以外は、何ということのない住宅やビルのある街並みが遠くまで広がるだけということだった。
猫はときどき、その猫特有の変わった行動を示す。どんな猫にもそれはある。喜久子はコジロウの不思議な行動を黙って見守ることにした。
コジロウが来て最初の冬のある日、喜久子は病院の検査でいつもより少し悪い数値が出てしまった。最近ちょっと無理してしまっただろうか。主治医には、それほど異常な数値じゃないからあまり気にし過ぎないようにと言われたが、やはり気持ちのいいものではない。
喜久子は久しぶりに暗い気分というものを味わってしまっていた。コジロウが来て以来、たとえ具合が悪く終日寝ている日であっても、落ち込むことなく過ごしていたのに。
その日は早めに床についたものの、まんじりともせず、ここのところ考えたこともない、昔の記憶が蘇ってきた。結婚、出産、息子の独立、よく面倒を見た孫のこと、夫との死別……。長く生きているからいいことも悪いこともたくさんあった。
「こんなことを思い返すなんて、私ももうすぐお迎えがくるのかねぇ……」
喜久子は弱気になり布団をかぶり直した。
けれど、いつもなら一番先に思い出すはずのことを今日は思い出していないことに気付き、不思議な気分になった。昔のことを思い返していて、あのことを思い出さないはずはないのに。七十年間、時を選ばず頭の中に現れては、喜久子を苦しめ、振り払うのに苦労する記憶。
川に流した猫のこと。
「今日は変だねぇ……」と思ったとき、枕元にコジロウが佇んでいるのが薄らと見えた。コジロウはジッとこちらを見つめている。
「私が眠れないから来てくれたのね」
ちょっとそんなふうに声をかけてみたかった。
するとコジロウは「キュゥウゥ」と切なげな声を出し、おでこを布団の端に入れ込んで、グイグイ中に入ってきた。そして喜久子の脇の下に体を埋めると、ゴロゴロと気持ちよさそうにして寝てしまった。その頃からか、喜久子は「あのこと」を思い出さなくなったような気がする。
優希也に頼んで動物病院の掲示板に「預かっています」の貼り紙をずっと出してもらっている。連絡はまだない。もし連絡があったらコジロウとはお別れになってしまう。コジロウが元の飼い主さんの家に帰って幸せなら、それは喜久子にとってもうれしいこと。でも、そうなったら自分は果てしなく落ち込んでしまうだろう。
もうコジロウは喜久子にとって、なくてはならない存在になっていた。
6.
コジロウが喜久子のもとに現れて一年が経っていた。その間、大好きなコジロウにできる限りの愛情を注いだ喜久子に、コジロウもありったけの信頼で応えてくれた。
縁側で日向ぼっこをしながら季節の移り変わりを見守る二人に、近所の人々は安らぎを感じるのか、誰もが微笑んで声をかけた。ずっと一人だった喜久子はいつしか温かい声に囲まれるようにもなっていた。
秋の涼しさを感じ始めた喜久子はボロボロになってきたコタロウの寝床を新調することにした。最初に優希也が作った段ボールの寝床は、補強に補強を重ねてなんとかやり過ごしてきたが、とうとう壊れてしまったのだった。
根を詰めるようなことはなるべく避けろと主治医には言われているが、これくらいはいいだろう。今までそういうことは優希也に任せっきりだったので、一度くらいは自分で作ってあげたい。
作品名:猫のムサシと猫のコジロウ 作家名:ねこたねこ