猫のムサシと猫のコジロウ
「猫を捨ててきなさい。仕方がないの。喜久子ができないなら私がやるから」
喜久子は拒否して泣いた。母親の胸を叩いて大泣きした。母親は喜久子を怒らなかった。ただ、じっと喜久子の怒りを受け止めていた。けれど、喜久子にもわかっていた。どうにもならないということが。疎開先の親戚も決して喜久子を歓迎しているわけではない。仕方ないから受け入れるのに、猫を連れていくなんてあり得ない。
それでも前日まで世話をする喜久子に母親は「私がやろうか?」と言った。喜久子はまた半べそをかき、首を何度も横に振った。明日、喜久子は東京から遠く離れた地方に疎開せねばならない。母親はもう、先延ばしできないと語気を強めた。
もし、自分が何もやらずに疎開すれば、母親が猫を処分する。近くに放置して無視しても、猫は喜久子の家に戻ってしまう。だからといって遠くに捨てに行く時間も、お金も、交通手段もない。そんなご時世で、負担になる猫を処分するといえば、それは、殺すということだ。喜久子にはそれが耐えがたいことだった。わかってはいるけれど、十一歳の女の子には答えがないことだったのだ。
夕方になり、母親は喜久子に最後の決断を促した。今、喜久子自身がやらないなら私が処分するしかないと。
喜久子は覚悟を決めた。
自分が救い、育ててきた小さい命、その結末を他人に任せたくはないという思いが十一歳の少女の中にもあったのだ。
木箱に入った二匹の子猫を抱え、母親に付き添われながら、喜久子は近くの川岸に立った。夕方六時前くらいだろうか。普段ならもう少しで喜久子が隠し持ったごはんが運ばれる時間。木箱の子猫は喜久子の息使いに反応して、ごはんがもらえると思ったのだろうか。それとも、いつもと違う雰囲気に必死の抵抗を示そうとしたのだろうか。中からミャアミャアという鳴き声をあげる。
喜久子はもう大粒の涙で頬を濡らし、しゃくりあげていた。見上げると、悲しそうな目をした母親が、喜久子を助けるでもなく、許すでもなく、じっと様子を見守っていた。
喜久子はゆっくり川べりに下り、そして、中の子猫を見ないように、木箱の下にもう一枚大きな板を敷いて川へと流した。
「ミャー! ミャー!」
鳴き声は、流れる木箱との距離が開くにしたがって喜久子の耳から遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
しかし、その声は、あれから数十年経った今も、喜久子の耳にこびりついて離れない。仕方がなかったこと。そうだと思う。でも、忘れられないつらい過去。自分が空腹に耐えてでも子猫を助けようとした喜久子。やむを得ないとはいえ自ら手を下した喜久子。以来、約七十年、喜久子は一度も猫を飼うことはなかった。
4.
翌朝、目を覚ました喜久子は今日も体調が良いと自覚してホッとする。ここのところ二日と良好な日が続かなかったのでびくびくしていたのだ。
昨晩はとうとう、起きている間に猫はやってこなかった。喜久子にしては遅くまで起きていたのに。
「結局、どこかへ行っちゃったのねぇ……」
仕方なく喜久子が縁側の皿を手に取ってみると、中身はきれいに舐め尽くされ、餌は一片も残ってはいなかった。あの猫が出てきて食べたのだろうか。それとも、他の動物かしら。喜久子がそんなことを考えていたとき、また「ミャア」という声がどこからか聞こえた。
喜久子はあたりを見回した。すると、今度は躊躇することなく、縁側の前まで昨日の白黒猫が出てきていた。喜久子は微笑み「やっと出てきてくれたのねぇ」と語りかける。
白黒猫はミャアと鳴く口の動きをしたものの、声は声にならなかった。切ない時、面倒なとき、なかなか願いが叶わず泣きつかれたとき、そしてどこか具合が悪いとき、猫は声を出さない鳴きをする。喜久子はそれを知っている。
「いいのよ、無理しないで。ちょっと待っててね。おかわり持ってくるから」
4.
喜久子は白黒猫をコジロウと名付けた。白黒なのでパンダ、パトカー、牛、つばめなどが思い浮かんだが、どれも猫には似合わない。つばめ……、つばめ返し……、佐々木小次郎。コジロウにしよう。そんな安直な命名だった。
保護した直後、コジロウは相当に弱っているように見えた。食欲こそあったものの、左手を地につけることができず、毛並みはボロボロで、あちこちに乾いたペンキのようなものがこびり付き、呼吸も速いように思えた。
その日の喜久子は体調がよく、ちょうど優希也が来てくれる日でもあったので、事情を話してみると「車で五分のとこに動物病院あるから行ってみようよ」と言ってくれた。やさしい優希也に限ってそんなことはないだろうと思ってはいたものの、「猫なんか放っておけばいい」と言われたらどうしようか……とも考えていたので、これは本当にうれしかった。
優希也は家の中から適当な大きさの箱を探し、中に古い毛布の切れはしを敷き、そこにコジロウを乗せ軽自動車に運んだ。
「悪くないといいねぇ……」
膝の上にかかえた箱に喜久子は語りかける。
コジロウの首には赤い首輪がしてあった。何かに引っかかったあとなのか、赤い布の部分はちぎれかかってしまっている。雨風にさらされてすっかり錆びてしまった鈴が二つ付けてあり、以前、他の人に飼われていたことが想像できた。
どうして自分のところに舞い込んでしまったのか、それはわからない。どうであれ、飼い主さんが見つかるまで自分が責任持って面倒みよう。喜久子はそう思っていた。
ただ、喜久子は最近、先のことを考えるのが少しつらくなってきてもいた。体力の衰えを痛切に感じているからだ。持病はあったものの、それなりに、普通にやってきた喜久子だったが、入院してからはめっきり体力が落ち、そして、弱気にもなり、いつ、何があってもおかしくないと考えるようになってしまった。
苛烈な戦争を生き抜き、貧しい中でも優しい夫と出会い、子供を授かり、孫もでき、幸せな人生を送れたと思う。最近、息子とは滅多に会うことができず、毎日、変化のない生活を送っているけれど、孫はこうして来てくれるし、文句なんて言おうとは思わない。自分の時代でこんなありがたい一生を送れる人なんてそうそういない。喜久子はそう思うようにしていたし、実際自分は幸せ者だと思っていた。何の不満もない。
もし、神様がいて、何か一つ、願いを叶えてくれるといっても、自分のことで頼む願いはない。それでも何か願えというなら、あの二匹の猫を助けてほしいと頼むだろう。車の中で箱を抱きながら喜久子は小さく呟いた。
「最後に、機会をくれたのかしらねぇ……」
コジロウは軽度の衰弱ならびに、左前肢指骨折と診断された。幸い骨折の症状も軽く、治療を施したあと、自宅で経過を見ていれば大丈夫とのことだった。
治療費一万四千円。
年金暮らしの喜久子には痛い出費。それでも、箱をかかえて病院を後にする喜久子は、何故かうれしいような、ほっとしたような気持ちになった。
その後は、優希也の提案でコジロウの当座の生活用品を揃えようということになった。助手席に揺られて到着したのは初めて行くホームセンター。
優希也に手を引かれ店内に入った喜久子は圧倒された。何十種類もあるドライフード、缶詰、首輪、おもちゃ、クッション、猫タワー――。喜久子は呆然として言葉がなかった。
作品名:猫のムサシと猫のコジロウ 作家名:ねこたねこ