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ねこたねこ
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猫のムサシと猫のコジロウ

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推定四歳になったムサシはすっかり佐織宅を気に入っていた。朝、皆が起きてくると足にスリスリして挨拶し、ご飯を食べ、家の中を一通り探検し、皆が出払う前にパトロールに出発。剛史が帰ってくる午後三時か、その一時間後には遊び疲れて帰宅する。夜は家族の近くで寝たり、いたずらしたり、愛嬌を振りまいて一日を終える。
生後すぐに消えていたかもしれない小さい命。
それが今はこんなにたくましく、楽しい日々を過ごしている。
佐織はそのことに尊敬の念すら抱いていた。そして、弱い自分のもとにやってきてくれたことに、運命というものも感じていた。

しかし、ムサシは消えてしまった。忽然と。
将来、獣医になるという夢は捨てていない。これは絶対やりきってみせる。
病弱だった体は高校に入って強くなり、今は友達もいて普通の高校生活を送っている。でも、心には埋めがたい大きな穴が開いたまま。前よりもどこか無気力な自分がいる。
ムサシ……、今、どこにいるの?

  3.

晩夏の夕刻。
少し体調がよくなり、久しぶりに床から出てくつろいでいた山井喜久子は、バケツをひっくり返したような突然の豪雨に、口元につけた湯呑をすっと離した。
縁側の窓は空けっぱなし。これだけの豪雨だと撥ねた雨水が中に入ってしまう。
喜久子はちゃぶ台の横に置いた愛用の杖をとり、痛む脚をかばいながら立ち上がる。一歩一歩、無理をしないよう窓際に歩を進め、縁側の右側の引き戸を閉める。
左側の引き戸を閉めようとしたとき、雨音と引き戸を動かす音以外の微かな音が聞こえた気がした。しかし齢八○になる喜久子は、自分の空耳だろうと意に介さず、すぐに左の引き戸を閉めようとする。その瞬間、あきからに甲高い「ミャー」という声が聞こえた。
空耳ではない。喜久子は猫の鳴き声を聞き違えるはずはないのだ。
弱った猫がいる――。
すぐにでも見つけ出して保護してあげたい。でも、喜久子はその気持ちを抑えて、しばらく待つことにした。
最近は持病の心臓病の悪化で床にふすことが多い。そのため体力もだいぶ落ちてしまっている。加えて膝と腰が痛む喜久子はスムーズに動けない。
この大雨の中、庭に出れば思わぬケガをしてしまう可能性もある。「絶対無理しないでね」と孫の優希也にも強く言われているのだ。
十分ほどしたころ、雨音が聞こえなくなり、遠くの空から急に夕日が差してきた。その時、雨に濡れ、ボロボロになった一匹の猫が縁側下からよろよろと出てきたのが見えた。喜久子は杖を支えにゆっくりと立ち上がり、縁側まで出ると、少し体をかがめて猫に話しかけた。
「もう大丈夫だよ、雨は行ったから。黒、あ、ぶちちゃんかな」
 喜久子の問いかけにまったく反応を見せない黒と白のツートンの猫。喜久子は困り果てた。けれど、ここで強引に近づいても、強引に誘っても、猫が逃げてしまう可能性が高いことを喜久子は知っている。
 喜久子は再び脚腰をかばいながらゆっくり姿勢を起こすと、台所に戻り冷蔵庫の中を覗き込んだ。常温保存の食品も一通り見て、猫が好きそうで、あげても大丈夫そうなものを選んで皿に盛り、縁側に戻る。
 だが、ツートンの猫はもうそこにはいなかった。喜久子はがっかりした。ひさしぶりに、変わった出来事が起こるのではと思ったのに……。

 喜久子の夫はもう十年前に亡くなった。以来、喜久子は夫と暮らした都内にある一軒家にたった一人で住んでいる。一軒家といっても築四十年の小さな家だ。
数年前に体を壊してから、息子は何かと気遣って連絡をくれるようにはなったが、関西に住んでいるいため、喜久子宅を訪れるのは年に一、二度。
喜久子の救いは近くに住む孫の優希也が週に一度やってきて掃除、洗濯、買い出し、病院の送迎をしてくれることだ。優希也は自他共に認めるおばあちゃん子。共働きの息子夫婦に代わり、小学生のときは喜久子が親代わりとなって育てたこともある。
 二年前に喜久子が一度入院したとき、大学生の優希也は喜久子の体調を気遣って退院後は一緒に住むと言ってくれた。しかし、これから華の大学生活が始まるというときに、自分の面倒で負担をかけたくないという思いから、喜久子はそれを断り、週に一度の訪問という形にしたのだった。
 優希也は頻繁に電話をくれるし、週に一度は世話をしにきてくれる。ただ、それ以外の日、喜久子は一人変化のない生活を送っていた。
最近は一日中横になって、陽が昇り、沈むのを漫然と眺める日も多い。だから、せめて体調が良い日は、何か少しでもいいから変わったことが起きてくれないかな、と期待するのだ。
「今日こそ、そういう日かと……」
 縁側先のこぢんまりした庭を見ながら喜久子は呟く。そして、猫のための食事を入れた皿を片付けようと踵を返したとき――。
「ミャア?」
 また、聞いた。今度ははっきり。自分に語りかけるような声……。
 喜久子はゆっくり縁側まで出てみる。
夕焼けにヒグラシの声が溶け込む夏のたそがれ時。沈む太陽はさきほどよりも西に傾き、まもなく薄暮というところ。だいぶ見えにくくなった庭のあたりを喜久子は目を凝らして見続ける。と、「チリッ」という鈴の音が微かに鳴ったような気がした。
「恐くて出てこられないのね……」
 喜久子は縁側に皿を置き、部屋から見守ることにした。それが猫にも一番ストレスがかからない。猫という動物が、信頼していない相手に対しては押せば押すほどひいてしまうことを知っているからだ。
「私は行くからね。恐がることないから、お腹が減ったらこれをお食べ」
呟いた喜久子は部屋に戻ると、消えていく夏の夕焼けを眺めながら物思いに耽っていた。
「猫……か」

 昭和十九年、東京。
喜久子の家は両親と兄弟七人の家族だった。父は警察官として真面目に働いてはいたが、大酒飲みで、家では粗暴に振る舞うことも多く、喜久子にはいい思い出がほとんどない。喜久子は下から三番目で兄弟の中では目立つほうではなく、自己主張をしたことも、親に面倒をかけたという記憶もない。ただ、一点を除いては。
 戦争は終末を迎えつつあり、東京にも戦火が吹き荒れるという噂がそこかしこから聞こえてくる。周りの家は一軒、二軒といなくなり、残る家でも子供は次々と疎開して、街から離れて行った。そしてとうとう、喜久子も地方の親戚の家に疎開することが決まった。
 喜久子にはどうしても気がかりなことがあった。それは家の縁側下でひそかに飼っている二匹の子猫のこと。一か月前に近所の川べりで鳴いているところを喜久子が家に持ち帰り、親に内緒で育てていたのだ。
多くの人たちが闇物資に頼らざるを得ないほど食糧事情が悪化してきたこの時期。配給の欠配、遅配は日常茶飯事となり、量自体も不足していた。喜久子はそのわずかな自分の取り分を懐に隠し、縁の下で体を寄せ合う白猫と黒猫の兄弟に分け与えた。
喜久子の母親はそのことを知っていた。戦場で多くの若い命が散り、残った人間も飢え死にするのが不思議でない世の中で、猫に食事を与えているのが近所に知れれば喜久子の家は白い目で見られる。それでも、喜久子がそこまでするのなら、と母は黙認してきたのだった。
 しかし、喜久子の疎開が決まったとき、ついに母親は喜久子に言った。