猫のムサシと猫のコジロウ
1.
カレンダーの日付をマジックで黒く塗る。八月二十日。今日でとうとう、二年の月日が流れてしまった。もうダメだと薄々わかってはいるけれど、やめることもできなくて。月日が経つのはとっても残酷。
半分外飼いだったは愛猫のムサシは、毎日近所のパトロールを欠かさなかった。けれど、遅くても夕方には帰ってきて、夜には佐織たちの傍を離れなかった。
夏は涼しい場所、冬はコタツの近くで幸せそうに眠りこける。自由奔放に暮らしながらも、毎日きっちり自分の仕事をこなしている。そんな家族の一員を佐織たちは微笑ましく見守った。
でも、あの日は違った。夕方を過ぎ、夜になってもムサシは帰ってこなかった。普段は昼間もちょこちょこ家に寄ることがあるのに、あの日だけは、朝を最後に誰もムサシを見なかった。
とうとう深夜になり、翌日になり、そして、一週間が過ぎてもムサシは帰ってこなかった。佐織と弟の剛史は、毎日近所を捜して回った。
側溝にはまって出られなくなっているのでは――。
作業中のマンホールに落ちて蓋をされてしまったのでは――。
高い屋根から降りられなくなっているのでは――。
猫は元来夜行性なので、ライトアップされた近所の電波塔の明かりを頼りに夜中じゅう捜索したこともあった。
そして、考えたくはなかったけれど、近くの道路で車に轢かれてしまったのではないかと、ムサシが行けそうな場所にある道路を全部、歩いてみたりもした。町内の掲示板に貼り紙を貼らせてもらい、動物病院に「捜しています」の広告も出させてもらった。
でも、ムサシは見つからなかった。
あれから二年、同じ夢を何度も見て、同じことを何度も考える。あの日、家に来ていたペンキ屋さんのトラックに乗って遠くに行っちゃったのだろうか……。
毎日傍にいるのが普通だったムサシ。
時間をあの日の朝に戻してほしい。神様がいて、あの日に連れて行ってくれるなら私は学校になんか行かない。一日中ムサシといる。ムサシがパトロールに行きたいと言っても「今日はダメ!」って我慢させる。
考えると涙がにじんでくる。
ムサシ……。せめて生きているのか、死んでいるのか、それだけでも知りたい。
2.
ムサシは佐織が中学一年のときにやってきた。顔は両側が黒で鼻筋部分が白、体は白と黒の比率がちょうど同じくらいのツートン。いわゆる黒ぶち。
幼少時から病弱だった佐織は、学校を休みがちでなかなか友達を作れなかった。たまに登校しても端っこの席にポツンと座り、話しかけてくる子もいない。
いじめられるわけではなかったが、いつも一人で給食をとり、昼休みは窓の外をぼんやり眺めた。
不憫に思った両親は、とかく沈みがちな佐織を案じて、精一杯努力してくれた。佐織が望まなくてもいろんなものを買ってくれたし、どこへでも連れて行ってくれた。佐織にはそれが逆に負担だった。
「私はいいの。このままで……」
共働きで忙しく、弟の面倒もみなければならない両親の重荷になりたくない。佐織はいつもそう思っていた。
両親は、ひとり自宅で過ごすことが多い佐織が寂しくないよう、犬を飼おうかと提案したこともあった。でも、気遣われること自体に負い目を感じていた佐織はそれを拒否した。
「自分はこういう状態だけど、それは大丈夫。むしろ、そのことで両親に迷惑をかけることのほうがよっぽどストレス」だったから。
そんな佐織が中学校一年のとき、大きな転機が訪れた。乗り気でない佐織に、やはり犬を飼おう、飼えば気持ちも変わるからと両親は強く提案した。それはほとんど決定事項だった。佐織のことを思ってのことだというのはわかっていた。
きっと、来週には、自宅に犬が来るんだろうな……。ぼんやりとそんなことを考えていたある日の夕方。自宅前に三匹の子猫がうずくまっているのを弟が発見した。
大雨だったその日、雨だれをなんとか避けようと軒下のわずかなスペースに寄り添い、身体をブルブルと震わせていた三匹の子猫。佐織はその様子を今でも鮮明に覚えている。
佐織と弟の剛史は子猫を家に入れ、タオルで拭いて布団を広げ、弱り切った体をさすって温めた。夜になって母親が帰宅し、事情を話して動物病院に急行。
二匹は手当ての甲斐なく病院で息を引き取ったが、残る一匹は驚異的な回復力で生死の狭間を脱出。二日後には佐織たちが引き取ることに――。それがムサシとの出会いだった。
白黒ツートンのその猫の生命力はすさまじく、数日前に死線をさまよったのがまるで嘘のように活動する。元気そのものだった。
佐織の家に入るなり、二階への階段を上がろうと小さい体で必死によじのぼり、あちこちの部屋を探検しては突然スースー昼寝をする。
起きて一階に降りてはテーブルからリモコンを落としたり、干してある洗濯物に飛びついたり。
佐織はその様子を無心で見守った。死の淵から生還した小さな命が、そんな危機があったことを微塵も感じさせない無邪気な仕草で暴れまわるのを見て胸が熱くなった。
弱い自分にはないたくましい生命力に感動すら覚えた佐織は、その猫を無敵の剣客になぞらえ「ムサシ」と名付けた。
佐織はこの命を全力で守ろうと思った。そして、その日からムサシは佐織のかけがえのない存在になった。
ムサシは飛び込むのが好きだった。
新聞、布団、ラグ、座布団。走ってきてその下にダイブする。それがムサシのお気に入り。佐織はムサシが好きなことに応えようと、ありとあらゆる方法でムサシのダイブを援助した。布団の逆側から定規の先をチラチラ出してみたり、市販のプラスチックでできたネコジャラシを出し入れさせてみたり。興味をそそるものは何でも試し、ムサシは必死でそれを追った。
佐織が落ち込んでいると、どういうわけかムサシは佐織の部屋に入ってきて、ものうげな顔をした。
佐織につらいことがあると、なぜだか近くにいてくれた。そして、そういう日に限って夜、佐織の布団に入ってきてゴロゴロと喉を鳴らし、いつまでも一緒に寝るのだった。佐織の心の隙間を埋めてくれるかのように。
佐織は今、獣医学部がある大学の付属高校に通っている。これもムサシのおかげだ。
ある日ムサシはこれまで聞いたことがない「オゥオゥ」という呻き声を上げた。佐織は焦った。すでに夜の十一時。動物病院は開いてない。
佐織は寝ずにネットで「猫 病気 症状」で検索し、かかった項目を片っ端から調べ上げてその内容を記憶した。翌朝の動物病院では、専門家顔負けの知識で質問をして獣医を驚かせるほどだった。診断結果は軽い尿管結石だったが、すぐに病状を判断できなかった自分を佐織は責めた。もっと早く見極めることができれば苦しませなくて済んだのに――この思いが佐織に進学を決意させることになる。
病弱なため学校に行けず、友達もできず、楽しみもなく、いつも何かをあきらめていた佐織。「つまらない学生生活をあと三年も過ごすなんて考えられない。高校なんて絶対に行かない」そう決めていた佐織はムサシと出会って変わった。
「自分にこれほどのものを与えてくれた動物に恩返しができる仕事に就きたい。そのために高校へ行く」そう考えるようになったのだ。
作品名:猫のムサシと猫のコジロウ 作家名:ねこたねこ