それぞれの死
「北島、この仕事は人情を忘れてはいかん。だが、その前に守らねばならないものもあるんだ」
「はあ……」
栄太郎は頭を掻きながら、高橋係長の真意を探っていた。
「今回の件は、見てしまったからには仕方ないな」
「やっぱりナナハチですか?」
「それも一つの方法だ」
高橋係長がにんまりと笑った。
「では、他にどんな方法があると……」
「どうせ、スナックなんか課税調査でも上がってこないんだ。厚生労働省や会計検査院の目は誤魔化せる」
「と、言うと……?」
栄太郎が高橋係長の瞳を覗き込んだ。
「ナナハチ扱いはせずに、上手く話をまとめて、保護の辞退届けを提出させるという方法もある。それも一つのけじめのつけ方だ。まあ、裏技だけどな。厚生労働省はすぐにナナハチをかけろと言ってくる。何しろ国庫が四分の三の法定受託事務だからな、生保は。ただ、このくらいの裁量が福祉事務所にあっても良かろう」
「果たして今後、やっていけますかね。高津栄子は……」
「その代わり、費用の徴収はないんだ。どっちが得か、高津に考えさせるのもいいだろう。何しろ、不正受給は告訴も辞さないというのが、今の厚生労働省の見解だからな。ただ、スナックの給料なんていい加減だろう。ナナハチをかける際、不正受給額の認定をするのが、すごく面倒なんだ」
高橋係長は灰色の煙をフーッと吐き出した。そして、短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
「まあ、高津が来たら、俺も一緒に面接室に入ってやるよ」
「お願いします」
栄太郎は高橋係長に深々と頭を下げた。高橋係長はそんな栄太郎の肩をポンと叩くと、三階の事務所へと戻っていった。
高津栄子は十時には市役所に来た。大分、しょげ返った顔をしていた。普段は品の良い中年女性を演じている高津栄子であったが、この時ばかりはやつれて見えたものである。
高橋係長が栄太郎に目配せをして席を立った。栄太郎も席を立つ。こうして三人は面接室へ向かったのである。
「今回は明らかに不正受給ですな」
高橋係長が腕組みをして、高津栄子を睨んだ。その眼力たるや凄まじいものがあった。栄太郎はメモ用紙にペンを走らせている。
「済みませんでした……」
高津栄子がしおらしく言う。
「我々としては、あんたを告訴した上で、費用を強制的に徴収することもできるんです。まあ、釜戸の灰まで我々の物っていうことですな」
それは脅し文句に近かった。高津栄子はただただ恐縮し、小さくなっていた。
「本当に……済みませんでした……」
高津栄子がハンカチで目を拭った。
「まあ、我々としては提案が二つあるんですよ。一つは不正受給として処理するか。もう一つは保護を辞退してもらうか。不正受給として処理する場合はきっちり不正受給額を認定して、徴収させてもらいますからね」
「でも私、生保がないとやっていけないんです!」
「我々は働くことが悪いと言っているんじゃない。隠れて働き、不正に保護を受けていたことが許せないんです。そりゃ、小さい頃に棄てた息子さんに仕送りをしたい気持ちはわかりますよ。だが、生保は仕送りをするための制度じゃないんだ。国民、市民の税金で賄われているんだ。そこのところを理解してもらわなきゃ困りますよ。息子さんだって、そんなお金を貰っても困るでしょう」
「うううーっ……!」
高津栄子が泣き崩れた。高橋係長は腕組みをしたまま、その様を見下ろしていた。栄太郎は神妙な顔をして高津栄子の髪を眺めていた。
どれほど、高津栄子は泣き続けただろうか。だがある時、むっくりと顔を上げた。
「いいですよ。保護は辞退します。どうせ、私みたいな障害者はいつの世だって見捨てられるんです」
「ふざけないでください!」
怒鳴ったのは栄太郎だった。
「障害者だろうが健常者だろうが、悪いことは悪いことなんです! 障害を笠に着て不正受給をするなんてもっての他ですよ。そんな捻じ曲がった根性だから生保に転落するんです。だったら性根を入れ替えて、自分ひとりで自立してみせてくださいよ」
栄太郎の心の中は煮えくり返っていた。
高津栄子は憮然とした表情をし、「辞退届けってどう書けばいいんですか?」と言った。
「書くんですね。本当に辞退届を書くんですね?」
栄太郎は高津栄子の瞳を真っ直ぐに見つめた。そこへ高橋係長が一枚の白紙を差し出す。生活保護の辞退届は様式があるわけではない。ケースが任意で書くものである。
「ここに『帰帆市福祉事務所長殿、私は就労して自立しますので保護を辞退します』と書いてもらおうか。最後に日付と署名、それに印鑑だ。いいか、あんたは自分の意思で保護を辞退するんだぞ。間違っても我々が強要したわけじゃない」
「わかっています。今後、どんなことがあっても生活保護は申請しません。その代わり徴収はないですよね?」
高津栄子が白紙にペンを走らせた。高橋係長は「うむ」と頷いた。
自分のデスクに戻った栄太郎は高津栄子のケースファイルを取り出すと、辞退届を挟んだ。さすがに高橋係長も「ふう、お疲れさん」と栄太郎に声を掛けた。そして、「お前の本音、しっかり聞いたぞ」と笑った。栄太郎は高橋係長に「ありがとうございました」と頭を下げた。
「高橋係長は僕のことをシゴくなんて言っていましたけど、結構優しいじゃないですか」
「あははは、そうか? 俺も『鬼の高橋』から『仏の高橋』になったかな。それより、廃止の記録はしっかり書いておけ。廃止ケースもたまに監査なんかで見られることもあるからな。その辺の事務処理の仕方は田所や戸沢に聞いてやっておけ。要否判定(保護が必要であるか、ないかの判定)では『保護否』になるよう、上手く書いておけよ」
「はい……」
「どうだ、これで少しはケースが信じられなくなっただろう?」
高橋係長が笑った。栄太郎は「修行します」と笑い返した。
そんな折、栄太郎の前の電話が鳴った。電話の主は矢口シズだった。先日、栄太郎に「プライドを傷付けられた」と怒りをぶつけた老婆だ。
「この前は怒っちゃって御免なさい。近いうち、ゆっくりとお茶でも飲みにきてよ」
栄太郎はフッと笑った。田所から矢口シズは長話になると聞かされていた。そんな老人の茶飲み話に、たまには付き合うのも悪くはないと思った榮太郎だった。
六月十日の夕方、栄太郎は面接相談員の小島から声を掛けられた。小島は新規申請の受付を行い、生活保護の開始までを担っている。この小島から新規開始したケースを引き継ぐのだ。
「無料低額宿泊所の百日台寮から大量に保護の申請があってさ。みんな、北島さんの地区なんだよ」
「無料低額宿泊所……ですか?」
「NPO法人が経営するホームレスのための施設だ。百日台寮は新しくできたんだけどね。まあ、無料低額なんて謳いながら、住宅扶助の限度額、ぎりぎりまで取るんだけどさ。いわゆる貧困ビジネスだよ。とりあえず、五つばかり申請があって開始したから、北島さんに引き継ぐよ」
「えーっ、五つもですかぁ……!」