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それぞれの死

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 栄太郎は真剣な顔をして澤井の目を覗き込んだ。だが彼の目は優しそうに笑っている。
「ふふふ、今回みたいなことがありますからね。だから続けたくなるんですよ」
 澤井の目はまるで栄太郎に感謝をしているようだ。感謝をしなければならないのは自分の方なのにと栄太郎は思う。
「どんな仕事でも、真剣に打ち込めば辛く、苦しいものですよ。家族や守らなければならないものが増えれば肩にその分、余計な重みも加わるし」
 澤井の口調は爽やかだった。
「人だって、この混沌とした現代で生きていくのは大変な状況ですよね。バブルが崩壊してから保護率も上がりましてね。今も長引く不況で右肩上がりでしょう。全国平均でも百人に一人くらいは生活保護を受けている計算になりますからね」
「確かに統計月報を見ると凄まじい勢いですものね。で、湯鶴町はどうなんですか?」
「まあ、グッチャグッチャですよ。保護率で言えば十六パーミリに手が届くんじゃないかな。それだけ貧富の格差が拡大し、低所得層が多いってことですよ」
 栄太郎は摘まみかけたチャーシューを口に運ぶのも忘れ、澤井の話に聞き入った。
 ただ、今の栄太郎には保護率など問題ではなかった。長太郎の死を受け止め、未来へ向かって誠実に、そして確実に歩いていくことが大事なのだ。
昌子もクッキー工場の収入だけでは食べていけないと言っていた。もし頼れる実家がなければ、彼女も生活保護を受けていたのだろうかと栄太郎は思う。脳裏に何人かの母子家庭のケースが浮んだ。
「何か、人の温もりとか、絆とかそういうものが希薄になっているような気がするんですよね。だから、昨日と今日、北島さんが来てくれてホッとしているんです」
「私もようやく父を許す気になれましたよ」
 栄太郎はチャーシューを口へ運び、半分位に減った焼酎を眺める。そこにあの日の父が浮かぶ。
「湯鶴町はどうですか、湯鶴町は?」
 酔いの回った柏木が、身を乗り出して尋ねてきた。
「正直言って、昨日までは鬼門だったんですけどね。今日は改めてすばらしい故郷であることを実感しましたよ」
「よっしゃあ!」
 柏木と室伏が腕を組んだ。
 栄太郎の心の中は、喉に刺さった魚の骨のようだった父の存在に一区切りをつけられたことと、昌子との再会の喜びで満たされていた。
 昌子と再会できたのも、もしかしたら父が編んでくれた運命の糸なのかもしれないと思う栄太郎であった。思わずポケットの携帯電話を確認してしまう。昌子親子が側にいてくれたら、おそらく仕事への意欲も更に上がるに違いない。
 何かの歯車が動き出していることは確かだった。
 気が付いたら、栄太郎の焼酎は空になっていた。三人のビールも残り少ない。
「俺たちも焼酎にするか」
 柏木が焼酎を注文する。さすがにストレートとはいかず、烏龍茶で割るようだ。栄太郎も焼酎の追加を注文する。
「強いですねえ」
 澤井が呆れたように言った。
「さあ、さっきは北島さんのお父さんに献杯をしたから、今度は北島さんの今後と、我々の今後の発展を祝して乾杯をしようじゃないか」
 柏木が明るい声で言った。
 程なくして運ばれてきた焼酎。三人はそれぞれ自分で烏龍茶割りを作る。普通、町の職員が県の職員のグラスに注いだりするものだと思っていたが、そんなことは一切しない。それぞれ思い思いにグラスに注ぐ仕草が自然で、少しもいやらしくなかった。
「それじゃあ、今度は乾杯!」
 三つのグラスとひとつのカップがまたぶつかり合う。
 言葉を超える、打ち解け合った空気がそこにあった。父との関係もただ和解という言葉で片付けられるものではないと栄太郎は考えていた。
 そして今日から故郷として復活した湯鶴町。また、これからも昌子を通じて関わっていくであろう湯鶴町に思いを込めて、ストレートの焼酎を啜った。

 忌引きが開け、栄太郎が出勤すると、高橋係長が手招きをした。
「今回は大変だったな。ご愁傷様」
「いえ、取り敢えずは父の墓を作らないと……」
「そうか……。ちゃんと遺骨は引き取ってきたんだな」
「はい。家の片付けも済ませました」
 栄太郎がそう言うと、高橋係長は満足そうに微笑んだ。だが、すぐに真剣な顔に戻る。
「忌引き明けで申し訳ないんだが、実は小山藤吉が危篤らしいんだ。愛向会病院ではまた新生会病院に移すことも考えているらしい。溜まった仕事を処理する前に一丁、様子を見てきてくれないか?」
「わかりました」
 栄太郎は上着を羽織ると、公用車のキーが仕舞ってあるボックスへ向かった。そして、無造作にキーをひったくると、階段を下りた。駐車場で公用車に潜り込み、エンジンをかける。少し整備の悪い公用車はガタピシ言いながら、ブオーンという爆音を上げた。
 栄太郎は公用車を運転しながら、人の死について考えていた。栄太郎は思う。そこには人それぞれの想いが介在すると。父、長太郎の死についても母の存在がなかったら、それこそ無縁仏に葬られていたかもしれない。今まで何人か無縁仏にケースを入れてきた栄太郎ではあったが、それは人の尊厳からかけ離れているような気がしてならなかった。だったら、自分にできることは何だろうとも考える栄太郎であった。
 物思いに耽っていると栄太郎の運転する公用車は愛向会病院に着いた。
 受付へ急ぐと、ケースワーカーの野地が栄太郎を待ち構えていた。
「北島さん、遅かったよ」
「え?」
「今しがた、小山藤吉が息を引き取ったんです」
「そうなんですか?」
「他の患者との関係もあるんで保護室で様子を見ていたんだけど、巡回したら死んでいてね。まあ、死亡診断書には発見した時刻を記載しておくから。しかし、参ったよなぁ。うちは精神病院だろう。ああいう死に方はちょっとねぇ……」
「ご迷惑をお掛けしました」
 野地は栄太郎を霊安室に案内した。それほどこの病院で死ぬ人間は多くはないのだろう。霊安室は狭かった。
「葬儀屋はどうします?」
「辰巳屋さんにお願いしたいと思います。わけありのご遺体をよく引き取ってくれるので」
「こっちも巡回してみたら死んでいたなんていうのは不名誉なことなんでね。ひとつよろしくお願いしますよ」
 栄太郎は小山藤吉の顔にかけられている布を取った。だらしなく開いた目と口が、彼の末路を象徴していた。
「親族っていましたっけ?」
 野地が遺体を見ながら、栄太郎に尋ねた。
「妹が隣の持立市にいますよ。何とか話をつけてみます」
「引き取ってくれるかね?」
「やってみますよ。それが僕の仕事ですから」
 栄太郎には先日の笹熊福祉事務所の澤井とのやり取りが記憶の中で膨れ上がっていた。
(人の死にはそこに想いが介在する)
 そんな思いで、栄太郎は小山藤吉の遺体を見つめた。

 市役所に戻った栄太郎は辰巳屋に連絡を入れた後、すぐに持立市に住む小山藤吉の妹、古谷啓子に連絡を入れた。
「あんな兄でも私にだけは優しかったんです」
 古谷啓子はそう言って、葬儀を引き受けてくれた。栄太郎は内心、ホッとしていた。
 だがその一時間後、古谷啓子からまた電話が掛かってきた。
「あのー、申し上げにくいのですが、兄の葬儀はやっぱり出来かねます」
「えっ、どうしてですか?」
作品名:それぞれの死 作家名:栗原 峰幸