それぞれの死
「うん。お袋の想いと、親父の想いが詰まった、この鉄のフライパンがそのまま捨てられるのが、何となく忍びなくってさ。それにこれを作った人も悲しむだろうなって。僕、今は帰帆市で生活保護の仕事をしているんだけど、親父の死に直面して、すごい仕事をしているんだなと思ったよ」
「そっか。栄ちゃんは相変わらず優しいね。それに、自分の仕事に誇りを持っているなんて立派だな」
「そんな立派なもんじゃないよ」
栄太郎は照れながら微笑み返した。
だが、この忌引きが明けてデスクに向かい、家庭訪問する自分は、昨日までの自分とは違うと栄太郎は思った。
それから昌子親子を家まで送った。光一を挟み、三人で手をつなぐ姿は、知らぬ人が見れば、仲の良い親子に見えても不思議はないだろう。
父の死後で不謹慎かもしれないが、こんな幸せがあってもいいと栄太郎は思った。父には果たせなかった、幸せな家庭を築きたいと思った。
(この子なら、自分の子として愛せるかもしれないな)
光一のあどけない笑顔を見て、ふと、そんなことを思った。光一も僕に屈託のない笑顔を向けてくれる。
光一が誰の子でも、この際、関係はない。昌子とならば、幸せを掴めそうな気がした。それはまるで、磁石のS極とN極が引き合うように、自然と惹かれ合うものかもしれない。
昌子の家の前で僕は二人に手を振った。
「お兄ちゃん、また会おうね」
光一がにっこりと笑い、大きく手を振る。
「夕方だったら、だいたい空いているから、電話ちょうだいね。メールはいつでもOKよ」
昌子ははにかみながら、小さく手を振る。
「ああ、必ず黒電話を鳴らすよ。それから、もしよかったら、このフライパンを使ってくれないか?」
「えっ、でも大切なフライパンなんでしょう?」
「マーちゃんに使ってほしいんだ……」
昌子はしばらく僕の目を見つめた後、コクリと頷いた。そして微笑む。
「私でよかったら、使わせてもらうわ」
「ありがとう」
栄太郎は夕陽に照らされて、プリズムのような光沢を放つフライパンを、昌子に手渡した。鉄は熱を伝え易い物質である。その鉄を通じてお互いの体温はおろか、気持ちまでが伝わるようだった。
「じゃあね」
栄太郎はメトロノームのように手を振って歩きだした。
角を曲がるまで、何度も昌子の家を振り返る。昌子も貴もずっと僕を見送り、手を振っていた。栄太郎も振り返る度に手を振る。
角を曲がるのを躊躇った。しかし今はここで足踏みをしているわけにはいかなかった。栄太郎は断腸の思いで、曲がり角の一歩を踏み出した。
栄太郎は茜色に染まった湯鶴の町を駅の方へ向かって歩き出した。すると海底公園の前をもう一度通ることになる。再び公園内に足を踏み入れると、栄太郎はタコの遊具に歩み寄った。そして思い出の染み込んだ、コンクリートの赤いタコをそっと撫でる。
過去の思い出だけではない。これからも思い出を重ねていくタコかもしれない。そんな思いでタコを撫でた。
そしておもむろに携帯電話を取り出すと、着信音を黒電話に変更した。そして黒電話が何回か鳴った後に、あのフライパンが栄太郎のところに戻ってくるような気がした。女の予感は当たるというが、時には男の予感だって当たる時があると栄太郎は自負していた。
公園を後にし、再び歩きだした栄太郎は喉が乾いていることに気が付いた。
(そうだ。もう一度、大東に寄ってみよう)
ふと、栄太郎は思いついた。室伏も「味の大東」に行くと言っていた。もしかしたらまた会えるかもしれない。
いつの間にか、速足になっていた。
信号の角にある「味の大東」の自動ドアをくぐると、お店のお兄さんが「いらっしゃい」と元気な声を掛けてくれた。昼間と違い、客はまばらだ。
「あれ、お兄ちゃん、昼間も来なかった?」
お店のお兄さんは客の顔をよく覚えているらしい。
「今は空いているから、テーブルでもカウンターでもいいよ」
栄太郎は奥の座敷を覗き込んだ。思った通り、そこには澤井と柏木、それに室伏がいた。みんなチャーシューや手羽先をつまみにビールを煽っている。
「先程はどうも」
栄太郎が声を掛けると、真っ赤な顔をした室伏さんが、人懐っこい顔で手招きをする。
「こっち、こっち」
「混ぜてもらってもいいですか?」
「もちろんですとも」
澤井が爽やかに笑った。
「お兄ちゃん、何にする?」
お店のお兄さんが注文を聞いてきた。
「焼酎をもらおうかな」
「割るものは?」
「いらない」
「じゃあ、氷と水でいい?」
ここの焼酎は酒屋で売っているようなカップの焼酎をそのまま出す。それを自分の好みのもので割って飲むのだ。
長太郎はいつもカップのまま、一杯目はグーッと飲み、二杯目からはチビチビと飲んでいた。
「今日はどうもありがとうございました」
栄太郎は正座をし、改めて澤井たちに頭を下げた。彼らにはいくら感謝の意を表しても限りがないと思う栄太郎だった。それは同じ仕事をしているからこそ、より一層強く思えるのだ。
「いいんですよ。これが私たちの仕事ですから」
澤井がにっこり笑って言った。最初に彼から電話が掛かってきた時との距離は確実に縮まり、旧知の仲のように思える栄太郎であった。柏木も室伏もそうだ。
「いやー、今日の片付けはしんどかったけど、良かったなあ。こうやって息子さんも来てくれたし」
柏木が真っ赤な顔をして笑った。彼の顔も爽やかだ。
「終わり良ければすべて良し、ですね」
室伏が振り向き様にビールのおかわりを注文する。
程なくしてビールと焼酎が運ばれてきた。
「じゃあ、改めて献杯」
栄太郎は焼酎のカップを、三人はビールのグラスを掲げた。
栄太郎は焼酎に映る自分の顔を眺めた。栄太郎は自分の顔を見て、憑き物が取れたような、晴れやかな顔をしていると思ったものだった。
(お父さん、もう許してやるよ)
心の中でそう呟くと、僕は焼酎をグラスに空けることなく、カップのままグーッと飲み干した。
「おお、やるねえ」
栄太郎が焼酎を飲む様を見て、柏木が驚いたように言った。
「親父がよく、この店でこうやって飲んでいたんですよ」
「なるほど、お父さんに捧げる一杯ってわけですか」
柏木が微笑んだ。
「すみません。焼酎のおかわりと、おしんこ、チャーシュー盛り合わせに手羽先八本!」
栄太郎はお店のお兄さんに大声で注文した。
すると、焼酎とつまみが運ばれてきた。僕は焼酎をチビチビと啜り始めた。
「さっきの勢いはどうしたんですか?」
室伏さんが冷やかすように笑った。特に悪気があったわけではないことはわかっている。
「親父はね、二杯目からはチビチビやっていたんですよ」
「そうでしたか」
僕は先程からあまり喋らない澤井さんの顔を見た。彼は冗談話を交えて、笑う柏木さんと室伏さんを見てニコニコしながらビールをチビチビと飲んでいる。
「澤井さん、この仕事って辛くありませんか?」
「そりゃあ、辛いことの方が多いですね。よく苦情も言われるし、時には体を張ることだってあります。仕事の九割は苦しいかな」
それでも澤井は笑顔を絶やさない。
「よく続けられますね」