それぞれの死
昌子とは小学校から高校まで一緒だった。別に正式に交際をしていたというわけではないが、相変わらず仲は良かった。昌子と一緒にいると、家庭での嫌なことを忘れられ、ホッとできたのだ。栄太郎が自然に振る舞える居心地のよい場所。それが昌子との時間と空間だった。
だから帰帆市へ引っ越した時、父から逃げられた解放感と同時に、栄太郎は心の寄り処を失ったような気がした。それは何も告げずに去った、昌子への罪悪感を伴って……。
昌子はヒステリックな金切り声で子供を叱り付けている。男の子はベソをかきながら泣いていた。
「ママー、ごめんなさいー!」
だが昌子は膨れっ面を崩さない。
栄太郎はベンチから腰を上げると、男の子の前にしゃがんだ。そして頭を撫でてやる。
「大丈夫だよ。ママだって許してくれるよ。ママにとって君は宝物なんだ。君にとってもママは宝物だよね?」
「うわーん!」
男の子は大泣きをしながら、昌子の腰に抱き着いた。昌子は困ったような顔をしながらも、そっと男の子の肩を抱いた。
栄太郎は顔を上げ、昌子の方を見る。昌子は目の前にいる男性が誰だかすぐに気付いたのだろう。口に手を当て、目を丸くしながら「あっ!」と叫んだ。
「栄ちゃん……?」
「そうだよ」
栄太郎は笑顔を返した。昌子はまだ信じられないといった表情をしている。
「久しぶりだね」
しかし昌子は答えることなく、そのまま固まってしまった。
夕暮れの公園にやるせない空気が流れた。
どれ程の沈黙が続いただろう。突然、昌子の頬から一筋の涙がこぼれた。
「どうしたの? ママー」
昌子は子供の肩に手を置きながらも、ボロボロと涙を流し続けている。
「栄ちゃん、やっと帰ってきたてくれたんだね」
そう言った時には、昌子の顔はクシャクシャに近かった。
昌子と栄太郎は公園のベンチに座った。男の子はまた無邪気にタコの遊具で遊びだしている。
「実は親父が死んでね」
栄太郎から話を切り出した。
「そうなの。お父さんから逃げたっていう噂を聞いていたけど、本当だったの?」
「ああ、お袋がいつも親父に殴られていてね。それで逃げたんだ。俺は今、川崎の製鉄所で働いているんだ。お袋と二人暮らしさ。親父はこの湯鶴町で生活保護を受けていたんだ。福祉事務所から連絡があってね」
「そんなお父さんでも、最後を看取ったの?」
「まさか。孤独死ってやつさ。今日は家の片付けに来たんだ。でも不思議なものでなあ、親父の死に顔を見たり、家を片付けたりしているうちに何だか親父が哀れに思えてさ」
「そう……」
昌子が寂しそうに呟いた。栄太郎はその声に、思わず昌子の横顔を見た。夕陽に照らされたその横顔は、ひとりで寂しそうに遊んでいた、あの時の昌子の横顔にそっくりだった。
「ところでマーちゃんの旦那さんって、どんな人?」
栄太郎がそう尋ねると、昌子は一呼吸置いてから口を開いた。
「別れたわ」
「えっ?」
「もともとチャランポランな人だったの。まあ、子供ができちゃったから、何となく一緒になったって感じかな。でも、あいつは変わらなかった。結局、あいつ、覚醒剤に手を出して逮捕されてね。それで離婚を決意したのよ」
昌子は無表情に語った。
「じゃあ、今は母子家庭なのかい?」
僕は昌子の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「うん。実家に身を寄せているの。私もクッキー屋で働いているけど、それだけでは食べていけないから、結局、今でも親のスネを齧ってる」
そう言う昌子の視線は宙を泳いでいた。おそらく自分でも、この先どうしたらよいのかわからないのだろう。
「はあーっ、私たち、これからどうしたらいいんだろう? 最近、ちょっとしたことでイライラして、ついあの子に八つ当たりしちゃうのよ。栄ちゃんの言う通り、あの子は宝物なんだけどね」
昌子が頭を抱え、掻き毟った。昔から自慢の長く、ストレートの髪が乱されていく。それはまるで己自身を傷つけているかのようだ。昌子を良く知る栄太郎としては、見るに忍びない光景であった。
「はあー、何で栄ちゃん、私の前から突然、消えちゃったのよ?」
「えっ?」
唐突な昌子の問いかけに、僕は一瞬、言葉を失った。
「あれからというもの、私の人生、狂いっぱなしよ」
「マーちゃん、もしかして僕のこと……」
「当たり前じゃない。男って本当に鈍いんだから」
昌子の瞳がまた潤みだした。
「ごめんよ」
ジーンズの上で硬く拳を握る昌子の手の上に、栄太郎はそっと掌を置いた。拳がプルプルと震えるのがわかった。
「うわあああーん!」
突然、昌子が大声を上げて泣き出した。男の子は母親の異変を逸速く察知し、タコの遊具から駆け寄ってきた。
「ママーッ、どうしたの?」
子供の不安げな表情が切ない。
「何でもない、何でもないのよ……」
昌子は子供にそう言うが、時折、ヒックヒックと肩が痙攣している。
「大丈夫だよ……」
僕が男の子の頭を撫でてやった。
「この子の父親が栄ちゃんだったらよかったのに……」
栄太郎はその言葉に心臓がドキッとした後、ギューッと締め付けられた。
夕日に照らされた昌子の涙は悲しくも、どこか美しい。
僕は男の子の顔をまじまじと見た。あどけなく、可愛い顔をしているではないか。
「君、名前は?」
「光一」
「いくつ?」
「みっつ」
男の子は栄太郎の質問に素直に答えてくれた。その瞳はまだ穢れを知らない、無垢の瞳だ。
「ねえ、携帯電話、持ってる?」
栄太郎が昌子に尋ねると、彼女はジーンズのポケットから、デコレーションされたいかにも女の子らしい携帯電話を取り出した。
「よかったら、番号とアドレスの交換をしようよ」
昌子は「への字」になった口元を緩め、少しはにかむように笑うと、「うん」と小さく頷いた。だが頬は化粧が落ち、グショグショだった。
お互いに携帯電話を弄くる。その間、僕は子供の頃、昌子がよくうちに電話を掛けてきたことを栄太郎は思い出していた。
(そう言えば、あの時も昌子から電話が掛かってくるのを、ウキウキしながら待っていたっけ)
栄太郎はあの頃から昌子のことが好きだったのかもしれない。単に幼なじみという言葉では片付けられない、思慕のような感情を抱いていたのだ。黒電話の前で齧り付くようにして、昌子からの電話を待っていたあの頃の感情が沸々と甦る。
「今日は会えてよかったわ。よかったら電話して」
そう言う昌子の顔は晴れやかだった。栄太郎は初めて声を掛けた時の、あの笑顔に似ていると思った。
「必ずするよ。でも僕たちには黒電話の方がお似合いかもな」
「着信音だけでも黒電話にしておこうか?」
「あっ、それいいかも」
二人で和やかに笑った。
「ところで、どうしたの? そのフライパン」
やはりフライパンは昌子の目にも異様に映るらしい。
「片付けた荷物の中にあったのさ。お袋が使っていたやつでね。僕たちが引っ越した後も、親父が使っていたんだ」
「それをお母さんに?」