小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

それぞれの死

INDEX|25ページ/29ページ|

次のページ前のページ
 

 栄太郎は阿部の「トイレに入るのも辛そうだった」という言葉を思い出した。おそらくトイレにも行けず、漏らしてしまったのだろう。苦しそうにもがきながら、這いずり回る父の姿が瞼の裏に浮かんだ。それでも最後には昭子と栄太郎を見つめ、苦しみを堪え、笑って死んだ長太郎。
「お、お父さん……!」
 急に製鉄所の溶鉱炉のように胸の中が熱くなり、一気にドロドロに溶けた鉄が吹き出しそうだった。それは涙腺を緩めて、栄太郎の頬を伝わる。栄太郎はこの時、込み上げる嗚咽を抑えることができなかった。
「うっ、うっ……」
 父を棄てた大人が恥も知らず、泣き崩れた。栄太郎の胸の中の溶鉱炉は、灼熱の涙を次から次へと作り続け、流し続けた。それは止まることを知らなかった。
だが、そんな榮太郎を笑う者は誰もいない。
 トラックから戻った澤井が、栄太郎の肩にポンと手を添えた。その手の温もりが暖かかった。ほんわかと優しい「気」の流れのようなものが伝わってくる気が栄太郎にはした。
「北島さんは優しい息子さんですよ。ほとんどの場合は拒絶されますからね」
 栄太郎はクシャクシャの顔のままで振り返った。澤井は優しそうな笑顔でそこに立っていた。栄太郎も知っている。澤井と同じ仕事をしているのだ。家族から拒絶されるケースは今まで数多く見ている。
「それにしてもお父さんの場合、発見が早くて良かったですよ」
 澤井がしみじみと言った。
「発見が遅れると、大変ですよね」
 栄太郎は涙を拭いながら相槌を打った。
「そりゃ、見られたもんじゃありませんよ。ムシに食われたりしてね」
「ああ、ありましたよ、そういうの。地区担当員になってすぐだったかなぁ……」
「ウジムシは嫌ですね。以前に死後一カ月くらい経った仏さんを発見したことがあるんですけど、ミイラのようでね。布団と密着した部分だけ溶けかかって、ウジムシが溜まっていたんです。あれは強烈だったなあ。目玉なんか食われて無くなっていてね。しばらくの間、食べ物が喉を通りませんでしたよ」
 澤井が顔をしかめた。高山真治の死に様が重なった。だが、その話を聞くと、父がそのような状態でなく、あの安らかな笑顔のまま発見されて、まだよかったと思う栄太郎だった。
「残したい物があったら言ってください。後で取りに来てもいいですから」
 澤井がそう言った。栄太郎は大便と小便の付着したブリーフと、汗の染み込んだランニングシャツをビニールに包むとバッグに入れた。そう、高津貴が母親のパンツを仕舞ったように。
 不思議とそれが汚らしいとは思わなかった。
「いや、これだけでいいです。今の家は狭いですから」
「じゃあ、あとの物は処分しますよ」
 栄太郎は一呼吸置いて頷いた。
 栄太郎が幼い頃に沢山シールを貼った机も、室伏とトラックへと積んだ。話によると、二カ瀬町の山の上にあるゴミ処理場に廃棄するのだとか。栄太郎は思い出が軋む音を立てて壊されるような気がしたが、こればかりは仕方がない。
「あー、これ終わったら大東で手羽先とチャーシューをつまみに一杯いくかなあ」
 室伏が背伸びをしながら呟いた。
「ああ、あそこのワンタンメン、美味しいですよね。でも、あそこで飲んだことはないなあ」
 澤井の顔からは汗が滴っている。それは早くビールでも飲みたいと訴えているようだ。
 栄太郎は先程食べた「味の大東」のワンタンメンの味を思い出した。そして楽しかった家族の思い出を。
(そうだ。思い出は胸の中にあればそれでいい。それで十分じゃないか)
 栄太郎はそう自分に言い聞かせていた。
 ふと、がらくたの山の中にフライパンがあるのを見つけた。昭子が昔使っていた鉄製のフライパンだ。僕は何げなくそれを手にした。どうやら長太郎は、昭子と栄太郎が逃げた後も、ずっとこのフライパンを使い続けていたらしい。
 生活保護費が少ないことくらいは栄太郎にだって理解できる。おそらく長太郎は自炊していたのであろう。このフライパンを使って料理をしていたに違いない。鉄に染み込んだ油が独特の光沢を放っている。
 一体、父はどんな気持ちで、このフライパンを使っていたのだろうかと栄太郎は思う。侘しさを噛み締めながらも、去った家族の思い出にしがみつきながら、ひとり台所に立つ父の背中が栄太郎には見えた。
「すみません。このフライパンも持って帰ります」
 さすがにフライパンまではバッグに入りきらない。それは手で持っていくしかない。電車の中でフライパンを剥き出しにして帰るのは少々恥ずかしいが、栄太郎はどうしてもこのフライパンを持ち帰りたかった。

 家の片付けが終わったのは夕方だった。
 みんな最後には汗だくだった。トラックも家とゴミ処理場を何往復しただろう。
 栄太郎は長太郎のために沢山の人が関わり、尽くしてくれたことを知り、感謝の気持ちで一杯だった。
 きっと父も葛藤があったと思う。そして自分を責め続ける、悔悟の日々を送ったに違いないと栄太郎は思った。そんな哀れな父の姿を見て、ここまで多く人たちが関わってくれたのだろうと推測する。同時に、澤井と同じ生活保護の仕事をしながら、今まで父に何もしてこなかった自分が急に恥ずかしくなった栄太郎だった。かと言って今更できることは限られている。
「あのー、澤井さん。父の葬儀代や片付けの費用なんですけど、私が出しますよ」
 栄太郎は声を忍ばせ、澤井の耳元で囁いた。
「ああ、片付けは費用がかかっていませんよ。すべて自前ですからね。葬儀の費用は……、弱ったなあ。本山葬祭さんに福祉でやるって伝えちゃったんですよ」
 頭を掻きながらも、澤井の顔は笑っていた。

 その後、栄太郎は子供の頃によく遊んだ公園に立ち寄った。公園の隅に大きな、赤いタコや魚の形をした遊具がある公園を、みんなは「海底公園」と呼んでいた。
 栄太郎はベンチに腰を下ろし、遊ぶ子供たちに目をやる。無邪気に遊ぶ子供たちに、幼い日の自分が重なった。
 タコの近くで男の子が泣いていた。どうやら母親に叱られているようだった。栄太郎はその母親を見た。それは栄太郎にとって忘れることのできない顔だった。
(あれは、昌子じゃないか……)
 その母親は小学校三年生の時に、二カ瀬小学校から転校してきた青木昌子に間違いなかった。
 昌子は転校生ということで、最初はクラスでからかわれたり、仲間はずれにされたりしていた。子供の社会とは、ある一面で大人の社会より残酷なものである。
 昌子の家はこのタコ公園のすぐ近くにあった。栄太郎はひとりで彼女が海底公園で遊んでいるのを、よく見かけたものだ。
 栄太郎は子供心にも昌子に同情していた。学校で理不尽な仕打ちを受ける彼女の姿に、家で辛い思いをしている自分自身の姿が、どことなく重なって見えたのだ。
 ある日、栄太郎は思い切って海底公園で遊ぶ昌子に「一緒に遊ぼう」と声を掛けてみた。彼女は少し強張った顔をしたものの、すぐにニコッと笑い、「うん」と頷き返してくれた。あの時の嬉しそうな彼女の笑顔は今でも忘れない栄太郎である。
 それからというもの、海底公園が昌子と栄太郎の遊び場になった。
 どこかお互いに惹き合うものがあったのだろう。ここでは嫌なことを忘れ、まるで傷を舐め合うように、暗くなるまで遊んだのだ。
作品名:それぞれの死 作家名:栗原 峰幸