それぞれの死
その夜、栄太郎は父の遺骨を枕元に置き、母と一緒に寝た。家族三人で寝たのはいつ以来だろうかと考える栄太郎であった。
昭子の布団からすすり泣く声が聞こえた。
栄太郎は長太郎の火葬で疲れているはずだった。それでも何故か寝付けない。母への心配と父への複雑な思いが入り混ざり、寝苦しい夜だった。
二人とも眠りについたのは日付が変わってからだっただろうか。
翌日の電車も混み合っていた。やはり帰帆で窓際の席を取る。今日のシートはしっかりと栄太郎の体重を受け止めてくれた。
帰帆を過ぎて見る海の景色は昨日と変わらない。輝く海も、寄せる白波も見る者が見れば、心打たれる景色だろう。
ただ、今日は栄太郎の胸の中に降り積もる澱はなく、適度な緊張感と期待感が心を支配していた。
そんな気分で眺める海はいいものだ。
湯鶴駅は昔とあまり変わっていなかった。変わったことと言えば、売店が小綺麗になったことと、二カ瀬駅と同じようにエスカレーターやエレベーターが設置されたこと、自動改札になったことくらいか。
栄太郎は改札を右に出て、信号の角にある「味の大東」というラーメン屋へ向かった。ここは昔、家族でよく食べにきた店だ。
お店に入ると「いらっしゃい」と、若く元気なお兄さんが声を掛けてカウンターへと案内してくれた。
自分では今まで湯鶴町という地は鬼門だと思っていたが、ここだけはホッとすると栄太郎は思う。何故ならば、ここでよく、家族揃って外食をしたからだ。そしてここで父が酒を飲む時はいつも機嫌がよく、笑いが絶えなかった。栄太郎にとって「味の大東」は、湯鶴町で唯一、家族の楽しい思い出が詰まった場所と言っていい。
それに店員の愛想のよさも昔と変わらない。栄太郎はここのワンタンメンが好物だ。もっとも子供の頃は量が多すぎて、残りを長太郎が食べていた記憶もある。
程なくして僕の目の前にワンタンメンが運ばれてきた。
ラーメンを啜り、まるでギョーザのようなワンタンを口に入れると、自然に涙が込み上げてくる。長太郎はここで飲む酒のように、何で家でも楽しく飲めなかったのだろうか。そう思うと栄太郎の食べるワンタンメンのスープに涙が垂れた。
「ティッシュ、ありますよ」
お店のお兄さんがティッシュボックスを取ってくれた。ささやかな心遣いが嬉しかった。鬼門と決めつけていた故郷に温かく迎えられた気が榮太郎はした。
腹ごしらえを済ませた栄太郎は海の方へ向かって歩き始めた。長太郎の家、そう、栄太郎の育った家は湯鶴駅から海の方へ向かった土井というところにある。近所は平家の借家が多く、長太郎の家も借家だ。手入れをしていなければ、かなり老朽化していることだろうと栄太郎は思った。
土井は道路が碁盤の目のようになっており、しばらくこの地に足を運んでいなかった栄太郎は、道に迷ってしまった。昔はなかったコンビニエンスストアも建っている。
栄太郎はコンビニエンスストアでペットボトルのお茶とスポーツドリンクを買った。澤井たちへの差し入れだ。きっと力仕事となれば汗も掻くだろう。
しばらく土井の辺りをウロウロしていると湯鶴町役場の文字が書かれたトラックを見つけた。そしてその前にある平家こそが、長太郎の家だった。
澤井が栄太郎を見つけて手を振った。
「こんにちは。ありがとうございます」
上下をジャージに纏った澤井の顔は晴れやかだった。昨日の喪服姿と対照的で、頭に巻いた手拭いがどことなく可笑しかった。
男の人が二人、もう既に家の中で作業に取り掛かっている。
「息子さん、来ましたよ」
澤井の声で二人が僕の方を向いた。二人とも爽やかな笑顔をしている。
「こちらは湯鶴町役場の福祉課の柏木さんと室伏さん」
「どうも、父がお世話になりました」
僕は深々と頭を下げた。
「いえいえ、どういたしまして。この度はご愁傷様です」
二人とも汗をタオルで拭いながら、会釈する。
玄関から覗いただけでも、部屋の中は乱雑なのがわかった。これを片付けるとなると、相当に骨の折れる作業になるだろう。それに何とも言えない異臭が漂っている。それは死臭と腐敗臭か何かの入り混じったものなのだろうか。
似たような臭いを嗅いだことが栄太郎にはあった。独居老人の高山真治が亡くなった時の臭いだ。
それでも栄太郎は気を取り直し、靴を脱いで家の中へ上がろうとした。
「あっ、靴は脱がない方がいいですよ。相当汚れていますから」
柏木が栄太郎に声を掛けた。見ればみんな靴のまま家の中へと上がっている。父の家は自分の家でもあると栄太郎は思っていた。だから、そこを土足で踏み荒らされたような気がして、少し嫌な気分になった。だから榮太郎だけは靴を脱いで上がった。
メリッ……。
足が沈むのがわかった。そして濡れたような感触が靴下を通じて栄太郎の足の裏に伝わる。
「あーあ、だから言ったのに」
既に畳は腐り、何かで濡れている。湿り気の正体が何であるかはわからない。しかし確かに濡れている。
それでも我慢して榮太郎は奥へと進んだ。
部屋の中は一面に下着類や洋服が散乱していた。食べたまま丼ぶりなどもあるようだ。
「単身の割には荷物が多いんだよな」
室伏がぼやくように呟いた。重いタンスを澤井と一緒にトラックへと運んでいる。以前は昭子の洋服などが入っていたタンスだ。
母は「あの家に置いてきた物に未練はない」といつか言っていたが、果たして本心だろうかと栄太郎は疑問に思っていた。昨日の母の様子を見ていると、少し不安になってくる栄太郎であった。
栄太郎は本棚に目をやる。そこには池波正太郎や藤沢周平などの時代小説がぎっしりと詰め込まれていた。週刊誌の類いは一切見当たらない。
「こんな物、出てきましたよ」
柏木が差し出したのは、何冊かのアルバムだった。
僕は感慨に耽るようにアルバムを次から次へと捲った。アルバムの中では長太郎は真面目そうな顔を装い、昭子は絶えず笑っている。栄太郎はおどけていることが多い。それはいつも暗くなりがちだった家庭の雰囲気を少しでも明るくしようという、子供心ながらの努力だったのかもしれないと栄太郎は思うのだった。
一段と古ぼけたアルバムがあった。まだ栄太郎が生まれる前の、長太郎と昭子だけが写っているアルバムだ。まだ二人とも若い。そこにいる二人は本当に幸せそうな笑顔を湛えていた。
(これだけは捨てられないな)
栄太郎はアルバムを全部、バッグに仕舞った。少しバッグが膨れ上がり、パンパンになってしまった。それにかなり重い。しかし、帰りには心地よい重みになっているかもしれない。そんな気が栄太郎にはした。
栄太郎も荷物の搬出を手伝おうと腰を上げた。すると、何か布のようなものに足を取られた。
「うわっ!」
栄太郎は思わず素っ頓狂な声を上げた。よく見ると、栄太郎の足を掬ったのは一枚のブリーフだった。
(これが親父の着ていたパンツ……)
栄太郎の足を掬ったブリーフを摘まみ上げる。するとそれには大便と小便の染みが付着していた。