それぞれの死
阿部がそう言って差し出したのは、一枚の写真だった。栄太郎が小学校六年生の時、湯鶴サボテン公園で撮った家族の写真だ。確か通りがかりの人にシャッターを押してもらった記憶が榮太郎にはあった。栄太郎はわざと大きな口を開け、おどけた顔をしている。長太郎は真面目そうな顔でカメラを見つめ、昭子はにっこりと笑いながら栄太郎の肩に手を置いている。それはカラー写真だが、既に色あせてセピア色に近い。
「これを父が握り締めていたんですか?」
「長太郎さんはね、奥様のことは諦めていたみたい。でも、あなたのことだけは諦めきれなかったようで、いつも栄太郎、栄太郎って取り憑かれたように呟いていたわ。よっぽど悔いが残っていたのね」
「でも、何で笑っていたのかな?」
「最後にその写真を眺めたからじゃないかしら」
写真ひとつで笑って死ねるだろうかと、栄太郎は疑問に思った。
「心不全っていうのは、いわゆる心臓麻痺なんですよ。そいつは相当に苦しいらしいんです。それでも安らかな顔で眠りについたというのは、やはりその写真のお陰なんじゃないですかねえ」
澤井がしみじみと言った。
「お父様の生活態度は真面目でした。お酒はもちろん、タバコも吸わない。いつも謙虚でね。私が訪問すると、お国の世話になって申し訳ないって、いつも泣いていましたよ」
澤井の口から出た言葉は、栄太郎の知る長太郎とはまるで別人であった。しかし、先程見た顔は、穏やかではあったが確かに長太郎の顔だった。
「父は病院には通っていたんですか?」
「脳梗塞を患いましてね。湯鶴病院に入院していたことがあるんです。リハビリで単身生活が営めるくらいまで回復しましたが、左半身に少し麻痺が残りましてね。それでヘルパーさんに入ってもらったんですよ」
「なるほど……」
「じゃあ、父はずっとひとりだったんですか?」
「ええ、もちろん。女の人の影は見えませんでしたね。いつも寡黙に小説を読んだりしていてね。どちらかというと、家に閉じこもりがちでしたかね」
あの長太郎が小説を読むなど信じられないと思う栄太郎であった。記憶にあるのは下劣な雑誌ばかりだ。昭子と栄太郎が逃げ出した後の長太郎は、どうやら栄太郎の知っている父ではなくなったらしい。
「父は改心したのかな?」
栄太郎が唸るように呟いた。
「改心というより、もぬけの殻といった印象でした」
阿部がやるせない表情でお茶を啜った。
呼び出しがかかり、釜の蓋が開いた。中から薄茶色の骨が係員により引き出される。
それは頑丈そうな骨だった。かつて土建業で鍛えた体ということもあるだろう。大腿骨の辺りなど、そのままの形で残っている。何度も昭子を蹴りつけた足の残骸がそこにあった。
「これが、親父の骨」
栄太郎は思わず、そう呟いた。
「そう、あなたのお父様の骨ですよ」
澤井が栄太郎に寄り添うようにして言った。後ろでは阿部のすすり泣く声が聞こえる。
(もぬけの殻か。確かに親父の残骸だな)
そんなことを思いながら、栄太郎は澤井と箸で骨を摘まむ。
係員が残りの骨の説明をしながら、手際よく骨壷に収めていった。薄い頭蓋骨が一番上にきている。
「これは埋葬許可書です。これがないとお墓に埋葬できませんから、大切に保管しておいてください」
係員が栄太郎に埋葬許可書を手渡した。栄太郎はその封筒を受け取るのを一瞬、躊躇ったような気もする。しかし気がついた時には、しっかりと受け取っていた。
(この骨をどうしよう……)
栄太郎はこの時、長太郎の遺骨を母の元へ持ち帰ってもよいものかと、まだ迷っていた。おそらく、ようやく落ち着きを取り戻した昭子の心を、激しく揺さぶるに違いなかった。
澤井が埋葬許可書の上に先程の写真を乗せてくれた。どうやら待合室のテーブルに栄太郎が置き忘れていたようだ。
その写真を見て栄太郎の心は決まった。
「明日、お父さんの家の片付けをするんですが、もしよかったら一緒に来てもらえませんか?」
澤井が静かに言った。
帰帆市職員の場合、肉親の死亡では一週間の忌引きが貰える。栄太郎が手伝うことは可能だ。
栄太郎は片付けを笹熊福祉事務所に任せる後ろめたさと、父が人生の終焉を迎えた場所をこの目で確かめたい気持ちが入り混じり、了解しようと決めた。
「わかりました。是非、僕にも手伝わせてください」
「それでは十四時に家の前に来ていただけますか? 家の場所、覚えていらっしゃいますよね?」
「はい」
栄太郎は力強く頷き返した。
父の家の片付けの約束までし、百日台まで戻ってきた栄太郎だが、いざ自分のアパートの前まで来ると、足取りが重くなった。錆びた階段を一歩一歩上る。親父の遺骨が異様に重かった。
部屋のドアの前までは来たものの、開けるのをつい躊躇ってしまう栄太郎であった。向こうには昭子がいるのだ。長太郎にさんざん痛め付けられてきた昭子が。
それでも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。栄太郎は思い切ってドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
落ち着いてはいるが、どこか力の抜けたような昭子の声が返ってきた。
昭子は栄太郎を出迎えてはくれなかった。奥の六畳間にいるのだろう。それでも栄太郎は長太郎の遺骨を昭子に見せようと、足を進めた。
(これは僕の務めだ)
自分にそう言い聞かせるが、心臓の鼓動は鳴り止まない。
襖は閉められていた。
ゆっくりと襖を開けると、昭子は西日のあたる部屋でひとり、正座をしていた。
「それがあの人のお骨かい?」
そう呟いた昭子の顔が随分と老けて見えた。
「ああ、親父の遺骨だよ……」
栄太郎は昭子の前に長太郎の遺骨を置いた。昭子はそれをじっと眺めている。その瞳は潤んでいるようだった。
「それと」
僕はポケットから一枚の写真を取り出した。阿部にもらった湯鶴サボテン公園での写真だ。
「親父は死ぬ時、これを握っていたそうだよ。その死に顔は笑っていた」
栄太郎がそう言うと、昭子は堰を切ったように泣き崩れた。長太郎の遺骨にしがみつき、横隔膜が壊れてしまうのではないかと思うくらいの勢いで泣いた。号泣とは、まさにこのようなことを言うのだろう。
そして昭子は何度も「ごめんね、ごめんね」という言葉を繰り返す。この時、母は心の奥底で、まだ父のことを愛しているのだと栄太郎は思った。でなければ「赤の他人」とまで言った人間に、ここまでの涙を流せるものだろうか。
どうやら自分が両親と過ごした時間と、母が父と過ごした時間は違うらしい。何だか、そんな気が栄太郎にはした。
「このお骨、どうしようか?」
「この人には実家なんてないも同然だからね。今更お墓に入れてもらえるかどうか」
母が力なく呟いた。
「やっぱり、我々の手で供養して、お墓に入れてあげるのがいいのかな?」
「栄ちゃんが許してあげられるんなら、そうしておやり。こんな人でも無縁仏じゃ可哀想だからね」
昭子が涙を拭いながら言った。その目は慈愛に満ちた優しさを湛えている。母の唇が「おかえり」と動いたのを、栄太郎は見逃さなかった。
やはり父の遺骨を持って帰ってきて正解だったと、栄太郎は思ったものだった。