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それぞれの死

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 そこは砂浜だ。坂から見ると奥の方にゴロタ石の岩場が少しある。この海岸も夏になれば海水浴客で賑わう。
 栄太郎は小学校高学年から中学校くらいにかけて、よくこの辺りまで自転車できた。
 栄太郎は砂浜に下りる階段に腰を降ろした。
 寄せては返す波を、ただボーッと眺める。二カ瀬道路の橋がのどかな風景を邪魔しているようにも思えるが、これを名所とする声もある。
(物は考えようだな……)
 自然と人工物が織り混ざった風景に、ふと、そんなことを考えたりもした。
 栄太郎はビニール袋からサンドイッチを取り出すと、頬張った。シャキシャキのレタスの食感が心地よい。
 砂浜では一人の老婆が何かを拾っていた。貝殻のような乙女チックなものではないだろう。手にしているのはどう見てもゴミだ。
(ゴミ拾いかな?)
 そう思いながら栄太郎は眺める。老婆は黙々とゴミを拾っている。
 栄太郎に気付いた老婆が、人懐っこい笑顔を湛えて近づいてきた。だがその視線は栄太郎の手にあるサンドイッチへと向けられている。
「縁起の悪そうな服を着ている割には、美味しそうなもの食べているね。あたしゃ、もう二日、何も食べていないよ」
 ボサボサの白髪頭に、皺だらけの老婆は笑顔でそう呟いた。その言葉に切迫感はなかったが、空腹であることに違いはないだろう。
「よかったら、お婆ちゃんも食べる?」
 栄太郎は残りのサンドイッチを差し出した。
「あたしゃ、これでも若いんだよ。『お婆ちゃん』なんて呼ばれる齢じゃないんだ」
 老婆のプライドは思ったより高いようだった。それでも笑顔は絶やさない。
「でも、ありがとさん。せっかくだから、もらっておこうかね」
 狡猾だが、どこか憎めない老婆は、皺だらけの顔を更に皺くちゃにして笑った。
 栄太郎も思わず苦笑して、サンドイッチを渡してしまった。
「あー、やっとオマンマにありつけたよ。あんた、いい男だね」
「それはどうも」
 どうやら老婆にとって、サンドイッチが一番の収穫だったらしい。彼女は重たそうな体を引きずりながら、漁協本部の向こうへと消えていった。その風景がまるで昭和時代の映画フィルムのようであった。
 栄太郎が老婆を見送っている間も、海からの潮風は栄太郎の髪を撫で続けた。
 何故か老婆の姿が心に焼き付いた。毒づきながらも礼を言い、僕を「いい男」と呼んでくれた老婆とのひとときは、火葬場に向かう前のちょっとした息抜きになったような気がした。
 栄太郎は海をもう一度、見渡すと海岸を後にした。

 駅に戻って歩道橋を渡り、二カ瀬中学校の前から駅の裏の方へ回って歩く。この辺りも、栄太郎が昔はよく自転車で来た場所だ。
 栄太郎は火葬場の前で立ち止まった。小綺麗になった火葬場は何だか父には不釣り合いな気がする栄太郎だった。
 栄太郎は火葬場の前で立ち止まり、呼吸を整えようと、大きく深呼吸をした。それは大きなため息だったかもしれない。先程の老婆との会話で少し気持ちが和んだとはいえ、やはり棄てた父と対面するのは緊張するものだ。
「北島栄太郎さんですね?」
 火葬場の入り口にいた喪服姿の若い男が歩み寄って来た。いかにも温和そうな好青年といった印象だ。齢の頃は栄太郎とそれほど変わらないだろう。
「はい、そうです……」
「初めまして。笹熊福祉事務所の澤井です。先日はお電話で失礼致しました」
 澤井が深々と頭を下げた。慇懃なお役人のイメージとは程遠いと思ったが、栄太郎は自分も公務員で生保の地区担当員をしていることを思い出し、思わず苦笑した。
「いえ、こちらこそ。あんな父のために、いろいろとしてくださってありがとうございます」
 栄太郎も失礼のないように丁重に頭を下げた。
「さあ、中でお父様がお待ちですよ」
 栄太郎は澤井に促され、火葬場の中へと足を踏み入れた。ここまできて足を留めても仕方あるまいと思った。火葬場の中にカツカツと革靴の音が異様に大きく響いた。
 既に棺は釜の前に安置されていた。焼き上げた骨を入れる骨壷も、味気無いシンプルなものだが用意されている。
 火葬に立ち会うのは栄太郎と澤井、葬儀屋の本山葬祭ともう一人、若い女性がいた。その女性はハンカチで目頭を押さえている。
(一体、誰だろう?)
 そんな榮太郎の疑問に答えるように、澤井が女性を紹介してくれた。
「こちらがお父様を発見してくださった、ヘルパーの阿部さんです」
 阿部がハンカチで顔を押さえながら会釈する。
「どうも、父がお世話になりました」
 一体、あんな父を世話する物好きなヘルパーなどいるものだろうかと、栄太郎は阿部の顔をまじまじと見つめた。
「さあ、それでは故人との最後のご対面でございます」
 葬儀屋が棺の蓋を開ける。一瞬、栄太郎は長太郎の顔を見るのを躊躇った。だが栄太郎に遠慮をしているのだろう。澤井も阿部も歩み寄ろうとはしない。仕方なく栄太郎は棺の中を覗き込んだ。
 長太郎はそこに横たわっていた。生活保護の葬儀では花はつかない。絹に似せた布に包まれて父は眠っていた。
 それは穏やかな顔だった。口元に薄っすらと笑みさえ浮かべているではないか。
これがあの、毎日酒を飲んでは怒り狂い、母親に暴力を振るっていた父の顔とは思えない栄太郎だった。そう、その顔はまるで悟りを開いた仏のような、別人の顔だったのである。
 栄太郎は自然と長太郎に向かって手を合わせた。特に意識したつもりはなかった。何故か長太郎の顔を見ていると、合掌せずにはいられなくなったのだ。
 続いて澤井と阿部が覗き込み、合掌をする。
「本当、最後に息子さんに会えてよかったわね」
 阿部さんが涙ながらに呟いた。
「父の死因は何だったんですか?」
 栄太郎が澤井に尋ねた。
「死亡診断書には心不全と書かれていました。司法解剖も行政解剖も行われなかったので、事件性はないと警察は判断したのでしょう」
 澤井さんは淡々と答えた。
「でもね、長太郎さんは最後の方はかなり弱っていたのよ。お風呂に入るにも、トイレに入るにもかなり辛そうでした。本当はもっと援助できればよかったんでしょうけど、要支援2では限界があったのよ」
 阿部が涙ぐんだ声で言った。
「要支援2……」
「介護保険の基準ですよ。その人の介護度を定めた基準でサービスの量が決まっているんです。ああ、そういえば北島さんも生保の地区担当員でしたね。このくらいのことはわかっていますね」
 栄太郎が頭を掻いた。どうやら長太郎にはそれほど手厚い介護はなされていなかったようだ。
「それでは、そろそろお別れです」
 葬儀屋のその言葉で、長太郎の棺が閉じられた。
 重々しい音を立てて釜の蓋が開く。自動扉だが、何せ人を焼く釜だ。その音はたとえ、あんな父を焼く釜とはいえ重いと思った栄太郎だった。
 栄太郎は合掌して長太郎を見送った。

 長太郎を火葬している間、栄太郎たちは待合室で待つことになった。
 阿部が気を利かしてお茶を淹れてくれた。啜ってみると、市役所のお茶と大差のない味だった。いや、この時、栄太郎の味覚は麻痺していたかもしれない。
「これね、長太郎さんが最後に握り締めていた写真よ」
作品名:それぞれの死 作家名:栗原 峰幸