それぞれの死
栄太郎は怖かった。もし長太郎の死を昭子に伝え、この平凡な幸せが、一瞬で脆くも崩れ去ったとしたら。そう思うと、躊躇わざるを得なかった。
それでも昭子の耳には一応入れておかねばなるまい。栄太郎は意を決し、昭子の背中に声を掛けた。
「あのさあ。さっき、福祉事務所の澤井さんって人から電話があったんだけど、親父が死んだらしいよ」
昭子の背中が一瞬、ビクッと跳ねた。開け放した冷蔵庫の冷気が伝わる。昭子の手にはネギが握られたままだ。
「そう……」
昭子はそう呟くと、ネギを冷蔵庫に仕舞った。そしてそのまま俯き、固まってしまった。
沈黙の時間が流れる。張り詰めた空気が、異様に重かった。
「福祉事務所は骨を引き取ってくれって言っていたけど、あんな奴の骨を拾ってやらなくてもいいよね?」
緊張に耐え切れず、思わず栄太郎は昭子に同意を求めた。これが榮太郎の本心だ。
しかし昭子は「はあーっ」と深いため息をつくと、意外な言葉を返したのである。
「あんな人でも、栄ちゃんのたった一人の父親なんだよ。私にとっては、もう赤の他人だけどね。お骨を拾ってやるか、やらないかは、栄ちゃんが自分で決めて頂戴」
昭子は栄太郎に背中を向けたまま、力のない声で言った。
栄太郎は混沌とした自分の気持ちが、更に掻き乱されたような気がした。
「だって、母さんにあれだけ暴力を振るった親父じゃないか。僕だって耐えていたんだ。母さんが殴られているのを、ただ怯えて見ているしかないのを。僕だって辛かったんだ。だから、あんな親父なんか死んだって関係ないさ。そうさ、あいつは親父なんかじゃない!」
栄太郎は一気に巻くし立てた。
昭子は何も言わず、そのまま台所へ行き、夕食の準備を始めようとする。
「母さん、何か言ってくれよ!」
本当はこれ以上、昭子を追い詰めてはいけないことは承知していた栄太郎だった。しかし、意外な昭子の言葉に混乱を来した栄太郎の頭は、目の前にいる母に救いを求めるしかなかったのだ。
「だから言っただろう。お前の父親のことなんだから、お前が決めなさい。もう大人なんだから」
「そんなこと言ったって……」
「ひとつだけ言っておくわ」
昭子がやるせない顔をして振り返る。その表情は長太郎と暮らしていた時の、暗く淀んだ昭子の表情だと栄太郎は思った。栄太郎はこの時、少しばかり母を追い詰めてしまったと後悔した。
「何だい?」
「お父さんとお母さんはね、あれでも好いて一緒になった仲なんだよ。あんな人でもね、逃げる時は本当に後ろ髪を惹かれる思いだったんだよ。あの人はね、誰かが側についていなきゃ、だめな人なんだよ」
昭子がエプロンで瞼を拭った。目尻にできた小皺が光っている。
栄太郎はまだ昭子が長太郎を愛していることを知った。しかしこの時、正直なところ、栄太郎には母の気持ちが理解できなかった。ただ、昭子が栄太郎に長太郎の遺骨を拾ってほしいと訴えているような気がしてならなかった。昭子の願いとならば、聞いてやらねばなるまい。栄太郎はそんなことを思った。
(澤井さん、まだ残業しているかな?)
栄太郎は電話の受話器を持ち上げて、自分を確かめるように数字を押す。電話のコールが異様に長く感じられた。
「お待たせしました。笹熊合同庁舎の警備の者ですが……」
無骨な男性のしわがれ声に後押しされて僕は言った。
「時間外に済みません。福祉事務所の澤井さんをお願いします」
翌朝、喪服に着替えた栄太郎は電車に飛び乗った。長太郎の火葬は十三時半から、二カ瀬町にある火葬場で執り行われるという。湯鶴町は二カ瀬町に隣接する自治体で、水道や火葬場などは合同となっていた。
朝の電車は混み合っていた。百日台駅から乗っても、既に空いている席はない。昨夜はあまり眠れなかったので、二カ瀬駅まで立ちっぱなしは少々きつい。
だが帰帆駅でドッと人が降りた。栄太郎は対面式シートの窓側に座ることができた。以前は硬く、座り心地が悪かったシートも、今は改良されている。しかしお尻の辺りがモゾモゾとして、座り心地が良いわけではなかった。それは栄太郎が長太郎に会いに行くのを、心の奥底で拒んでいるからに他ならない。決してシートのせいではなかった。
帰帆駅を過ぎると、左手には海が広がる。深い青に太陽の光が眩しく反射し、銀をちりばめたようだ。栄太郎は思わず目を細めた。磯場には波が豪快に打ち付けられる。
観光客にとっては絶景であるこの景色も、今の栄太郎にとっては重苦しい、淀んだ景色に過ぎない。磯場に打ち付ける白波もまるで牙のようだ。それは線路が進むにつれ、僕の心に重くのしかかってくる。
ふと、深海の海底に降り積もるマリンスノーのイメージが栄太郎の中に浮かんだ。それは決して綺麗なものではなく、栄太郎の胸の中に降り積もりながら、淀んでいく澱だった。
二カ瀬駅に着いた時、栄太郎はどうしようもない不安に駆られた。
(ついに来てしまった……)
そんな思いでホームを踏み締める。電車が去った後、弓なりに曲がるホームを見渡すと、まばらな人影が改札へと降りていく。喪服を着ているのは栄太郎くらいだ。
(そうだ。誰も親父の葬儀に来たりはしない。来るはずがない)
そう思いながら栄太郎は階段を下った。駅は高津栄子の調査で訪れた時と変わりはなかった。そう、昔と変わったことと言えば、いつの間にかエスカレーターとエレベーターが設置され、改札も自動改札になっている。
火葬場は二カ瀬駅のちょうど駅裏あたりにある。歩けば四、五分といったところか。
(まだ早いな)
何せ、朝食を済ませてすぐに家を飛び出してきたのだ。長太郎の火葬の時間は十三時半だ。時計を見るとまだ午前十一時だった。
(どうしようかな?)
こういう時の時間つぶしは一番困ると栄太郎は思った。
食欲はまったくなかったが、駅の脇の売店でサンドイッチを二つと缶コーヒーを買う。まだ胃の中には朝食が残っている感じだった。
それでも何か物事の前には、しっかりと食べておかねばならない。小さい頃、食費が父の酒代に消え、ひもじい思いをしたこともあった栄太郎であった。
食事は愛を表すという人もいる。いつも家の食事は貧しかった。それでも昭子は工夫して、栄太郎に精一杯の愛情を注いでくれた。だが、食べ盛りの栄太郎には少ない量だったのである。それは片親しかいない寂しさに、どこか似ていた。
だから栄太郎の食へのこだわりはトラウマのひとつなのかもしれない。そう、満たされないお腹と心を常に一杯にしておかないとならないという、強迫観念に近いものとでも言えるだろうか。
栄太郎はサンドイッチと缶コーヒーの入ったビニール袋をぶら下げて、駅前の地下道を潜った。魚の絵が描かれたその地下道は、その暗さと相俟って、まるで深海の中にいるような気分だ。栄太郎は先程の心に降り積もるマリンスノーのような澱を思い出す。
地下道を抜けると栄太郎は迷った。二カ瀬漁港の方へ行こうか、それとも海岸の砂浜の方へ行こうかと。
結局、僕の足は海岸の方へ向いた。なだらかな坂を下り、二カ瀬町役場の前を通る。そして今度は少し急な坂を下れば海岸だ。坂の途中で湾曲した砂浜が見えてきた。