それぞれの死
木島愛子はその四日後に、無事に男子を出産した。木島愛子からも病院からも連絡があったのである。栄太郎は木島愛子に「お疲れ様。おめでとう」と言った。だが、栄太郎の中では「果たして望まれて産まれてきた子どもだろうか?」という疑念が渦巻いていた。これまで幾多の死を見つめてきた栄太郎ではあるが、釈然としない出産はまた、栄太郎の心に翳りを落とすのだった。
(いかん、いかん。こんなこと気にしていたら……)
栄太郎は気が落ち込みそうになると、家に置いてある買ったばかりのエレキギターのことを思い出していた。
その日の昼休み過ぎ、栄太郎のデスクの電話が鳴った。
「はい、もしもし」
「北島栄太郎さんでいらっしゃいますか?」
聞き馴れない男の声だ。栄太郎は一瞬、何かの電話セールスかと疑った。
「はい、そうですが」
「突然のお電話、失礼致します。私は県の笹熊福祉事務所の澤井と申します」
栄太郎はその名前を聞いて、嫌な予感がした。その澤井は続ける。
「実はお父様の長太郎さんが、お亡くなりになりました」
「ふーん、父が?」
そう言う栄太郎の口調は、かなり突っ慳貪だったかもしれない。
「お父様と栄太郎さんとの関係が悪かったことは、私も存じ上げております。ただ、お父様は身寄りが他にいないんですよ。お葬式だけでも上げて戴けないかと思いまして」
「あんな奴、父親でも何でもありませんよ!」
栄太郎は口調を荒げた。受話器に自分の唾がかかるのがわかる。
「それでは、せめてお骨だけでも引き取って戴けませんでしょうかね? 私どもは葬儀まではできても、お骨までは預かれないんですよ」
その相手の言い分がわからないでもない栄太郎だったが、その言葉がやや事務的に聞こえた。栄太郎は生活保護の地区担当員として葬儀絡みでは苦労も重ねてきた。だが、彼と父との確執は簡単に解れるものではなかったのである。この時の栄太郎は完全に頭に血が上っていた。
「いい加減にしてください。何で今更他人の骨を引き取る必要があるんですか?」
後々考えれば、それはケースの親族に言われ続けてきた台詞なのだが、どうしても言わずにはいられなかった。
「そうは言ってもね、お父様、最後は栄太郎さんに会いたいって言っていましたよ。好きだったお酒も断って、いつも家族の写真を眺めていたんですよ。最後は湯鶴町の自宅で亡くなっているのを、ヘルパーさんに発見されたんです」
そう言う澤井の声は、どことなくしみじみとしていた。だが栄太郎には父が酒を断ち、家族を思い出す姿など想像できない。
「ちょっと、考えさせてください」
「お父様は明日、荼毘に付されます。できれば今日の夕方までにご連絡戴けますか?」
「わかりました」
栄太郎は電話を乱暴に切った。同時に胸の中にドロドロとした感情が渦巻く。それは憤怒のマグマのようでもあった。
栄太郎は父が湯鶴町で生活保護を受けていたことは知っていた。栄太郎が生活福祉課に勤務する以前の話だが、笹熊福祉事務所から、栄太郎のところに「扶養届」なる文書が送られてきたこともある。もちろん栄太郎は、扶養はできないし、する気もない旨を記載して返送した。
ちなみに郡部は県の福祉事務所が生活保護を所管している。湯鶴町は笹熊郡にあたるから、笹熊福祉事務所が生活保護の所管をしているのである。
栄太郎は湯鶴町の土井というところで生まれ、高校生の時までそこに住んでいた。
土建屋で働いていた父は、酒を飲んでは、よく母の昭子に暴力を振るった。雨で仕事が休みの日など、朝から酒を飲んでは絡んできたものだ。母の話では、給食費が酒代に消えたこともあったらしい。
今で言えば、父、長太郎の暴力はドメスティック・バイオレンス(配偶者・恋人からの暴力)と言ったところだが、当時はそんな言葉もなかった。
長太郎の昭子に対する暴力に理由などなかった。「家事が遅い」だの「酒が足りない」だの、ただ因縁をつけては、ひたすら暴力を振るっていたのだ。昭子はただじっと、長太郎からの言われ無き暴力に耐えていたのである。栄太郎もまた、そんな昭子が殴られるのを黙って見て、怯えながら耐えるしかなかった。子供心にも、自分が大人になったら、父のようにはなるまいと思ったものである。いわゆる反面教師というやつだ。
だがそんな昭子も、ついに堪忍袋の緒が切れる時が来た。栄太郎が高校を卒業すると同時に、栄太郎と一緒に帰帆市に家出したのだ。栄太郎は持立市にある大学に進学が決まっていた。学費の面では母の昭子に苦労をさせたと思う。身を潜めたのは安いボロアパートだった。栄太郎も必死にアルバイトをして学費を稼いだものだ。
湯鶴町の家も安い平家の借家だったので、住めば都だった。
その後、昭子は長太郎との離婚に向けて、裁判を起こすことになるが、それからが長い道程だった。家庭裁判所の調停まで二年はかかったと思う。
栄太郎が帰帆市に来てからは、一度も湯鶴町に足を向けていない。湯鶴町は昭子や栄太郎にとって「鬼門」だったのである。そればかりではない。いつしか、西へ向かうことさえ、忌み嫌うようになっていた。
だがここのところ、昭子もようやく明るさを取り戻してきた。今は午後のみ、スーパーで清掃のパートをしている。六十を過ぎた母の年齢から考えれば、使ってくれるところがあるだけでも有り難い。いわゆる、生きがいとしての仕事だ。
問題は先程の福祉事務所からの電話を、どう母の昭子に伝えるかだ。栄太郎は虚ろな目を天井に泳がせた。
その数分後、栄太郎と高橋係長は市役所の裏手、灰皿の前にいた。
「そうか……。親父さんが湯鶴町で生保をな……」
高橋係長が煙を吐き出す。
「まあ、この仕事に関わっているんだ。最後くらい面倒見てやれよ」
「はあ、でも自分の気持ちがついていかなくて……」
「親族の気持ちがわかっただろう。そして、お前は無縁仏に入れられた仏さんを目にしてきた。その哀れな末路も知っているはずだ。それに香山新吉の時、兄にごり押ししたのは誰だっけ?」
高橋係長の目はいつになく厳しかった。
「はあ……」
栄太郎はため息のような、気のない返事をする。確かに今まで見てきた孤独死で最後は無縁仏に入れられ、生きていた証さえも抹消されていくようなケースをいくつも見てきた栄太郎であった。しかし、だからと言って父親の存在を許せるわけでもなかった。栄太郎の心はいっぺんに何色もの絵の具を流し込んだような、混沌の色を湛えていた。
「後悔だけはするなよ」
そう言って、高橋係長は煙草を揉み消した。その台詞は以前に栄太郎が高津貴に言った台詞と同じだった。栄太郎は缶コーヒーをズズッと啜った。
ギィーッ……。
建て付けの悪い、安普請のドアが開く音がこだまする。どうやら昭子が帰宅したようだ。
「母さん、お帰り」
「あら、栄ちゃん、帰っていたの?」
昭子が驚いたような顔で栄太郎を見た。
「ああ、今日は残業しなかったんだ」
「そうよね。いつも栄ちゃん、残業大変だもんね」
昭子がスーパーのビニール袋から夕食の食材を取り出し、冷蔵庫に入れる。その後ろ姿が平凡で、どこにでもありそうな幸せだった。