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それぞれの死

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 栄太郎はそれを食い入るように見つめた。そこには「生存が危うくされるとか、その他社会通念上放置し難いと認められる程度に情況が切迫している場合。従つて、単に最低生活の維持ができないというだけでは、必ずしもこの場合に該当するとは言えない。如何なる場合がこれに該当するかは、事実認定の問題であるが、概して云えば子供とか、不具廃疾者とかは扶養義務者が扶養しないというだけでこの状態に陥ることが多く、又成年者でも病気の場合にはこの状態に比較的早期に陥る可能性が多いであろう。(原文のまま)」とあった。
「この『生活保護法の解釈と運用』は法制定時に発行されたものだ。それが未だ根拠として十分通用するものとなっている」
「この社会通念上放置し難いと認められる程度っていうのが曲者ですね」
「具体的には障害者や未成年者が放置されている状況を考えてのことだ。それと重度疾病を持っている病人だな。助け合い資金をギャンブルに注ぎ込んで、それで急迫はないだろう。もともと支給されるはずの年金額も最低生活費を上回るし、今回は保護を却下せざるを得ないな」
「でも、電気が停められているんですよ」
「急迫保護の考え方は最近、変わってきていて、電気が停められたり、生活が困窮したりしているからと言って、安易にかけすぎるきらいはあるよ。だが、『生活保護法の解釈と運用』にも書いてある通り、単に最低生活が維持できないというだけでは急迫に該当するとは言えないと思うな。一度廃止して、また入院で保護を開始した小山藤吉なんかは急迫保護だと思うけどね。まあ香山新吉についてはケース検討を行おう。そこで福祉事務所としての見解を出そうじゃないか。前の工藤正道みたいに審査請求されても面倒だ。却下する根拠を固める必要があるな。ところで親族はいるのか?」
「兄が市内に住んでいます。それと離婚した妻に引き取られた娘が、やはり市内に……。いずれも仲は悪いようですが……」
「あの歳で兄と言ったら、年金生活者か……。援助は厳しいだろうな。頼れるのは娘だな」
 高橋係長が仏頂面をして呟いた。

 その知らせは香山新吉のケース検討をしている最中に飛び込んできた。
「大変です。香山新吉の家が火事だそうです」
 電話に出た小島が慌てていた。
「やっぱり火を出したか!」
 高橋係長の顔が曇った。栄太郎はすぐに席を立ち、上着を掴んだ。
「待て!」
 栄太郎が飛び出そうとするのを高橋係長が制した。
「今、我々が行ったからといっても、何の問題解決にもならん。今は腰を据えて状況を見守るしかない。もし、救急搬送されていれば病院から連絡がはいるはずだ。その時は急迫保護してやるんだな」
 しかし、事態は深刻だった。香山新吉と思しき男の焼死体が焼け跡から発見されたのだった。栄太郎は身元確認のため帰帆警察署まで赴いたが、その焼死体は焼け焦げた肉の塊であり、それが果たして香山新吉なのかどうかはわからなかった。香山新吉の兄、香山新吾も駆けつけてくれたが、十年来会っていないとのことで、何も確証になるものは得られなかった。
「歯形の照合しかないですかねぇ」
 瀬田という刑事は面倒臭そうに呟いた。栄太郎は思う。もしも社会福祉協議会で借りた助け合い資金をギャンブルに注ぎ込まず、少しでも電気代に充てていたら、香山新吉はこんな非業な最後は遂げずに済んだであろうと。
「お兄さん、葬儀は親族でお願い致しますよ」
 栄太郎は香山新吾にそう伝えた。すると、香山新吾の顔が歪んだ。
「こんな奴のことは知らん。ギャンブルに明け暮れて身を滅ぼしたんだ。自業自得ですよ。こんな奴のために行政があるんじゃないですか?」
「それは違います。ギャンブルで身を滅ばした人のために何で税金を使わなきゃいけないんですか? 扶養親族がいるわけですから、葬儀は親族でやってもらいます」
 栄太郎はきっぱりと言い切った。香山新吾はブツブツと言いながらも、「弟の娘と相談します」と言った。
「生活保護も決定していないし、これ以上、福祉では関われませんからね」
 そう言い放つと、栄太郎は帰帆警察署を後にした。早く、その場から立ち去りたかったこともあるが、親族の義務までも放棄して、行政にすべてを押し付けてくる香山新吾の姿勢が見え隠れしたため、きっぱりと言い放ったのだ。
 だが、本当の問題はそれからだった。翌日の新聞に香山新吉の焼死の件が載り、「生活保護を申請したが、電気が停められ、蝋燭での生活を余儀なくされ、火事となり死亡した」と書かれていたのだ。これは福祉事務所に対するイメージダウンであった。
「うーん、先日も横領があったばかりだからな……」
 高橋係長は頭を抱えていた。
 早速、県の生活援護課からも調査が入り、保護申請の経緯とその後の対応が問われた。
「香山新吉には社会福祉協議会の助け合い資金を紹介しました。そこで当座の生活費として三万円支払われているんですよ。それを彼は競輪に注ぎ込んでしまったんです」
 栄太郎は生活援護課の職員に力説した。少々、口を尖らせて。
「その時、少しでも電気代の支払いに充当していれば焼死は免れたでしょう。我々も電力会社に連絡を入れておきましたからね」
「なるほど、おたくの対応に瑕疵はなかったと……」
 生活援護課の職員は眼鏡の奥から栄太郎を見つめていた。栄太郎は生活援護課の職員を見つめ返した。

 木島愛子の出産が近づいていた。
「この際だから、元気なお子さんを産んでくださいよ」
 栄太郎は家庭訪問の際に木島愛子に、そう声を掛けていた。木島愛子は特に息子たちの心配をすることもなく、サバサバとしていた。だが、出産は入院を伴う。栄太郎はその間の息子たちの心配をしていた。木島愛子に尋ねても、「どうしましょうかねぇ……」と気のない返事が返ってくるのみであった。
 木島愛子は実家とは深刻な断絶状態が続いている。祖父母に息子たちの面倒を依頼するのは困難であった。そこで、栄太郎は児童相談所を通じて、息子たちの児童養護施設への一時入所を打診した。すると、三徳園で受け入れをしてくれるという。
 栄太郎は息子たちを三徳園まで送っていった。
「ママー……! どこにも行かないでーっ!」
 息子たちは木島愛子とのしばしの別れに、不安と悲しみを隠せずに泣いた。栄太郎の胸が痛んだ。
(ネグレクトの通報を受けるような母親でも、やっぱり母親なんだ……)
 栄太郎が三徳園に行くと高津貴の姿が目に付いた。髪はやはり黒く、また茶色に染め直しているようなことはなかったのである。
「どうだい、その後は?」
「その節はお世話になりました。元気にやっています」
 高津貴は爽やかな笑顔で、そう返した。
「そうか……。しっかりやれよ」
「はい」
 栄太郎は木島愛子の息子たちを職員に引き渡した。
「おじちゃんも行っちゃうの?」
 息子たちは不安げな表情を隠せずにいた。だが、栄太郎は「お母さんが赤ちゃんを産むまでの間だよ。またすぐにママに会えるから」と優しく声を掛けてやった。
 栄太郎の心の中は釈然としない。息子たちをここまで不安におとしめて、悪びれる様子もない木島愛子の態度が気に入らなかった。一時の快楽に溺れ、相手の男さえわからぬ妊娠という無責任な行動を取った木島愛子の態度が……。
作品名:それぞれの死 作家名:栗原 峰幸