それぞれの死
「そうですか。しかし、親族の葬儀だけで三百万円も使うもんですかねぇ」
「実はパチンコと競輪に凝っていましてね……。お恥ずかしい話で……」
「つまりはギャンブルのツケを税金で払えと……」
「申し訳ございません!」
香山新吉がその場に土下座した。栄太郎はやりきれない顔をしながら、「頭を上げてくださいよ」と言った。そして、続ける。
「年金担保借入の場合は基本的に国で定めた最低生活費と本来支払われる年金額を比較して要否判定という保護が必要であるかないかの判定をします。年金額が最低生活費を上回れば、保護は適用されないのが原則なんです。香山さんの場合は年金担保借入したお金を遊興で浪費してしまった。年金担保の取り扱いについては、こちらで検討させていただきます。基本的に保護申請から決定までは十四日以内に行われることになりますが、資産等の調査に時間がかかる場合もありますので、そうした場合には三十日まで延長できることになっているんです。香山さんの場合は念入りな調査が必要でしょうね」
栄太郎のその言葉に香山新吉は頭を項垂れるしかなかった。栄太郎は申請書一式を受け取ると、席に戻ろうとした。
「待ってください。今日どうするかのお金もないんです!」
香山新吉は悲痛な面持ちで立ち上がった。高橋係長が目配せをした。栄太郎が頷く。
「しょうがないですねぇ。社会福祉協議会の助け合い資金を紹介しますから、そちらで相談してください」
香山新吉の顔が緩んだ。
小山藤吉の病状調査で愛向会病院に栄太郎が赴いたのは、翌日の午後のことだった。
病院の受付ではケースワーカーの野地が待っていてくれた。
「いやー、小山藤吉にはほとほと困っていますよ。身体がまだ麻痺しているのに、他の患者を恫喝するんですからね」
「ふふふ、保護室がちょうどいいんじゃないんですか?」
「まあ、覚醒剤の後遺症もあると思うんですがね。最近、妄想も激しくて……」
野地に案内された栄太郎は閉鎖病棟と呼ばれる外部とは遮断された病棟に足を踏み入れた。閉鎖病棟の中では多数の患者が意味もなく徘徊をしていた。目のギョロついた男が寄ってきて、栄太郎に「あんた誰?」と尋ねた。栄太郎は「役所から来ました」と言って、その男の横を擦り抜けた。
保護室はお粗末なナースステーションの脇にあった。鉄の固い扉が閉鎖的な世界の中で、更に閉鎖性を強調していた。
一人の看護師が鍵を開けた。そこにいたのは紛れもなく小山藤吉だった。オムツを穿かせられ、拘束衣を纏っている。その口からは涎が垂れていた。それでも小山藤吉は栄太郎の姿を見ると「何じゃ、われー!」と悪態をついてきた。どうやら、生活保護の担当だったことは覚えてはいないようだ。
「小山さん、僕のこと、覚えていないんですか?」
「ああ?」
小山藤吉の目は宙を泳ぎ、焦点は合っていないようだった。
「終始、こんな感じなんですよ」
野地が苦笑する。栄太郎は狭い保護室の中を見渡した。床には布団が敷かれ、部屋の片隅に和式便器がある。
「私は医者じゃないので、何とも言えませんがね。まあ、ここがこの人の終の棲家になるかもしれませんね」
野地が小山藤吉を見下ろしながら言った。
「生活保護は医療費が全額負担ですからね。ヤクザやってシャブまでやった人を税金で救済しなければならない。まあ、今まで好き放題やってきたんだから、最後くらい惨めでもしょうがないですかねぇ」
野地のその言葉には皮肉が込められていた。栄太郎は言ってやりたかった。「できるなら、一服盛ってやってください」と。だが、そんなことは口が裂けても言えない栄太郎であった。
(月夜ばかりじゃねえぞ)
以前、小山藤吉に言われた台詞を、栄太郎は心の中で吐き棄てた。
そこへ主治医の新山がやってきた。
「ああ、うまく時間調整が取れましたよ」
野地が笑った。主治医が「小山さん、どうですか?」と尋ねると、小山は「うるせー、馬鹿野郎!」と怒鳴った。それは恫喝することが、彼のアイデンティティーにも思える栄太郎であった。
ナースステーションで主治医の新山からの病状説明は行われた。
「まあ、小山さんは覚醒剤のやりすぎで脳に大きなダメージを負っていますのでね。意識が戻ったと言っても、回復の見込みはないでしょう」
「つまり、在宅生活は無理だと?」
「ええ、在宅に戻れるくらいなら、保護室になんか入れませんよ。まあ、入院継続が妥当ですな。周囲の患者は恫喝するくせにオムツ無しでは生活できないような状況です。ヤクザも年貢の納め時ですな。しょうがないからうちで最後まで面倒見ますよ。うちみたいな病院もないとね……」
新山はそう言い放つと、不機嫌そうに席を立った。新山が小山藤吉の入っている保護室をチラッと見た。そこからは「ああ」とか「うう」とかいう呻き声が聞こえていた。
栄太郎は思う。もし、この独房のような保護室の中で小山藤吉が人生の最後の時を迎えたとしたら、それも立派な孤独死の一種だろうと。
愛向会病院から帰ってきた。栄太郎のところに早速電話が舞い込んできた。電話の主は香山新吉だった。
「昨日、社会福祉協議会でお金を三万円ほど借りたんですが、今日、それを落としてしまって……」
「落としたぁ? じゃあ警察に紛失届を出さないと……」
「えー、それが、そのー……」
香山新吉が口ごもる。
「何を躊躇しているんですか?」
「済みません。競輪の券売機の中に落としてしまったんです」
栄太郎は呆れて返す言葉もなかった。
「じゃあ、電気は……」
「まだ止められたままです」
「これじゃあ、生活保護を支給してもギャンブルに注ぎ込んでしまうんじゃないんですか? 悪いけど、あなたは信用できない。くれぐれも蝋燭で火事など起こさないようにしてくださいよ」
電話の向こうから競輪場のファンファーレが聞こえてきた。それが栄太郎の怒りに火に油を注いだ。
「兎も角、あなたの生活保護はこちらで慎重に検討させてもらいますから!」
栄太郎はそう言い放つと、乱暴に電話を切った。
「随分とお冠だな」
高橋係長がニヤニヤ笑いながら、栄太郎を見た。
「新規の香山新吉ですけど、社会福祉協議会の助け合い資金を競輪でスッたようなんです」
「馬鹿な奴だなぁ」
「係長、急迫の定義って何ですか?」
「ん?」
「年金担保の取り扱いでも、暴力団の場合でも『急迫の場合を除き』ってありますよね。つまり急迫であれば年金担保をしていても保護が適用になる。でも急迫の定義があいまいな気がして」
「それはだな……」
高橋係長が後ろを向き、一冊の分厚い本を取り出した。
「これだ。『生活保護法の解釈と運用』、この本の中の百二十二頁に『急迫した事由がある場合』というのがある」