それぞれの死
高津貴がその場に泣き崩れた。本当はさっさと家の片づけをしたいと思っている田所と戸沢であったが、高津貴を黙って見下ろしていた。栄太郎がむせび泣く高津貴の背中をそっと撫でてやる。その仕草が優しかった。
田所と戸沢は箪笥の引き出しを開けた。
「こんな物が入っていましたよ」
戸沢が差し出したのは、臍の緒だった。高津貴の臍の緒である。
「君のお母さんは死ぬまで君のことを心配していたんだろうな。まあ、自分の腹を痛めた子だ。その親子の繋がりは君が考えている以上に深いと思うよ」
戸沢が臍の緒を高津貴に渡す。高津貴は恭しくそれを受け取った。
「あーあ、下着が散らかってらぁ……」
田所が何枚かの下着を手で掬った。それはパンツだったのだが、子宮癌による不正出血が続いていたのだろう。パンツは血と澱物で汚れていた。
「お母さんの血……」
高津貴がそのパンツを見つめた。
「まだ生きていた頃の証だよ……」
栄太郎が唸るように言った。
「それ、僕に下さい……」
「どうぞ。ビニールに入れようか?」
「いえ、そのままでいいです。汚い物とは思えませんから……」
高津貴は田所から汚れたパンツを受け取った。
それは年の瀬にも近い十二月十五日から三日間にかけて行われた。生活保護法施行事務監査である。それは県本庁の生活援護課から監査職員が派遣され、事務運営面、ケース検討を行われるのである。監査職員は書面検討を行った上で、査察指導員や地区担当員からヒアリングを行うのだ。栄太郎にとっては初めての経験であったが、そのための資料作りに、連日大残業を行って挑む監査であった。
それは監査二日目に発覚した。一時扶助の移送費の支給明細に受領印がないものが発見されたのだ。それは田所が担当するケースの受領印だったのだが、「北島、お前、ちょっと行って、受領印貰ってきてくれ。市役所のすぐ近くだから」と高橋係長に言われ、田島聡の移送費の受領印を栄太郎が貰いにいくことになった。田所はヒアリング中だった。監査ではそのような受領印もチェックされる。監査終了までに受領印を貰えば、それは指摘事項から削除されるのである。だから、高橋係長にしても必死だったのだ。
田島聡のアパートは帰帆市役所の裏手、すぐのところにあった。田島聡はクローン病という難病を抱えており、遠方の病院まで通院していた。その通院費が高額になるため、随時支給していたのである。
呼び鈴を鳴らすと田島聡はすぐに出てきた。
「済みません、田島さんですか? 福祉事務所の北島と言います。田所の代わりに参りました」
「な、何だね、突然に……」
「実は通院移送費の受領印を貰い忘れていて……」
栄太郎は支給明細書を田島聡に見せた。そこには二万円を越える金額が記載されている。
「何だって? 私は通院費など一度も貰ったことがないですよ。それに先月は通院していない」
「え?」
「だから、こんな金、貰った覚えはないと言っているんだ」
信じられることではなかった。栄太郎には正直、田島聡がとぼけているのかと思った。
「私はお国の世話になるだけで十分なんだ。通院費まで貰っちゃ悪いですよ。それに持病で通院するのは年に二回くらいのものですよ。検査を兼ねてね」
「それじゃあ、これは一体……」
「さあ、知らないね。貰った覚えのない書類に印鑑は押せないよ。じゃあ……」
そう言って田島聡はドアを閉めた。栄太郎は呆然としていた。
(まさか、田所さんが横領を……?)
市役所に戻った栄太郎は事の次第を高橋係長に報告した。
「何だって?」
普段冷静な高橋係長の顔が青ざめた。そこへヒアリングを終えた田所が事務所に戻ってきた。
「田所、お前、この受領印が貰えないのはどういうことだ。説明してみろ!」
高橋係長が支給明細書を田所に突きつけた。田所の手からメモ用紙がはらりと落ちた。
それはやはり横領だった。田所は一時扶助と呼ばれる保護費をケースから申請があったように見せかけ、三文判を用意して自分の懐に入れていたのである。監査の間に一時扶助の台帳はすべて見直しがされた。そこで、田所が四年間で横領した額は二百万円以上にのぼることが判明した。
栄太郎にはショックだった。田所は栄太郎にとって良き先輩であった。高山真治の葬儀の時には的確なアドバイスをくれた。高津栄子の不正受給発覚の時にも側にいてくれた。先日も高津栄子の家の片付けを手伝ってくれたばかりだった。栄太郎にとっては頼りになる先輩像そのものだったのである。そんな田所が裏で一時扶助を不正に請求し、懐に入れているなど信じられることではなかった。
だが、それ以上にショックを受けているのは高橋係長だった。高橋係長はいつも地区担当員から報告を受け、彼らを信じ、味方になってくれていた。田所の横領はそんな高橋係長の信頼を裏切る行為だった。
田所の手口は実に巧妙だったが、それは福祉事務所の体制にも問題があると生活援護課からは指摘された。経理と保護の決定が別の班で行われ、その連携が取れていなかった。だから、田所は電算システムで簡単に一時扶助費を入力して、架空の請求を行っていたのだ。
田所の横領は記者発表され、新聞にも載った。当然のことながら、田所は懲戒免職処分となった。田所の家族が横領した金額を自己弁済したため、起訴は見送られた。
田所は「ほんの出来心でやってみたら、上手くいったのでズルズルとやってしまった。横領した金は遊興費に使った」と自白していた。それは帰帆市福祉事務所、始まって以来の不祥事だった。
「辛いなぁ……」
ある晩、高橋係長と一杯引っ掛けにいった栄太郎は、普段、弱音を吐かぬ高橋係長がしんみりとそう言ったのを聞いて、田所の一件の傷の深さを噛み締めていた。
田所の不祥事から生活保護班と経理班の関係も見直され、支給に対するチェック機能も強化された。ただ、栄太郎には何を信じていいのかわからなかった。あれだけ信頼を寄せていた先輩にまで裏切られたのである。
だが、高橋係長は「小さくまとまるなよ」と言って課員の士気高揚を煽っていた。
高橋係長から栄太郎が「相談員が新規を抱えすぎているから、お前も手伝ってやってくれ」と言われたのは、監査が終了して間もなくのことであった。高橋係長は「新規ケースの開始をするのも勉強の一つだ」と言っているのを聞いて、栄太郎は引き受けることにした。確かにここのところ、保護率は右肩上がりだった。申請件数も前年度の二分の一増で上がっていた。
その男はフラッとやってきた。酒臭い息を振りまいて。
「おらぁ、生活保護受けさせろや!」
男は窓口で怒鳴った。高橋係長が栄太郎に目配せをした。栄太郎はカウンターへ歩み寄った。
「生活保護のご相談ですか?」
「そうに決まってんだろう!」
「そんなに酔っ払っていたら、まともな話し合いができませんね。後日、改めて来所してください」
栄太郎は穏やかな口調で言った。
「何だと、馬鹿にする気か! 金なら全部使っちまった。俺は以前、東京の台東区でもホームレスの施設にいたことがあるんだ。お前ら何だかんだ言って、保護を申請させないつもりだろう!」
「だから、酔っ払って来るというのがですね……」
「うるさい!」