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それぞれの死

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 辰巳屋が栄太郎に死亡診断書を見せてくれた。そこには「栄養失調症」と記載されていた。つまりは餓死である。これほど豊になった現代社会でも、まだ餓死が存在することをその死亡診断書は示していた。それは少なからず、栄太郎に衝撃を与えたのである。
 横井啓太はあの無料低額宿泊所に入所していれば、餓死は免れたかもしれない。しかし、横井啓太は自由と人間の尊厳を貫いて、あの無料低額宿泊所から行方をくらましたのだ。おそらくは、二カ瀬町の漁港に戻ったであろうことは、容易に推測できた。何故、帰帆市に向かっていたのかは不明だ。もしかしたら、また生活保護の相談をしに来たのかもしれない。だが、遺体は何も喋らなかった。
「それでは出棺です」
 重々しい音を立てて、斎場の釜が開いた。いよいよ火葬である。栄太郎は釜に入れられていく棺に向かって手を合わせると、黙祷を捧げた。
 横井啓太が荼毘に付されている間、栄太郎は辰巳屋と世間話をしていた。
「辰巳屋さんは金にならない葬儀ばかり引き受けているんじゃないですか?」
「大きな声では言えませんがね。親族で葬儀を出す場合は、それなりに頂いているんですよ」
「福祉で葬儀をする場合と、親族が葬儀をする場合では、そんなに値段が違うもんですか?」
「三倍から五倍は違いますよ」
「すると、大雑把に見積もっても百万以上はかかると……」
「そう思って頂いて結構です」
 栄太郎は葬祭ビジネスの裏側を少し垣間見たような気がした。
「でも、前みたいな、あの高山真治さんみたいな、あんなご遺体も結構あるものなんですか?」
「孤独死でもすべてが福祉の世話になるわけじゃありませんからね。親族が葬儀を引き受けてくれれば、親族でお願いするケースも多いですよ。警察も結構、親族にはごり押ししますからね」
 栄太郎は思った。横井啓太や高山真治のような孤独死は氷山の一角なのだと。兎角、殺伐としがちな生活保護の業務で、死に対する感覚が麻痺しているようにも思えてくる栄太郎であった。
(だが、今は感傷に浸ろう……)
 栄太郎は無料低額宿泊所で寂しげな微笑を浮かべていた横井啓太の顔を思い浮かべていた。
 やがて火葬が終わり、横井啓太の遺骨が釜から引き出された。その遺骨は薄茶色をしており、随分と華奢な骨だった。栄太郎は辰巳屋と頭蓋骨の骨を箸で摘んだ。残りの骨は係員が集めて骨壷におさめていった。埋葬許可証をその上に添える。栄太郎はその骨壷を大事そうに抱きかかえた。
 成願寺の無縁仏に横井啓太の遺骨を納骨に行ったのは、その日の午後であった。成願寺の住職は「またか?」と露骨に嫌そうな顔をした。
「新入りですが、よろしくお願い致します」
 栄太郎はそう言って、住職に遺骨を引き渡した。住職は穢れた物でも持つように、遺骨を受け取った。
(感傷に浸るのはここで終わりだ……)
 栄太郎は自分にそう言い聞かせていた。栄太郎には百人ほどの生きたケースがいる。その人たちの支援に頭を切り替えなければならなかった・

 九月六日、その電話は突然掛かってきた。それは帰帆総合病院のケースワーカー、迫からの電話だった。
「高津栄子さんが本日、入院したんですが、医療費の支払いが困難なので、生活保護を申請したいのですが……、以前の経過から保護は無理だと本人はおっしゃるんです。でも、医療費の支払い能力はないんです。病院としても医療費の焦げ付きは困るので、生活保護に出来ないですかねぇ?」
「まあ、迫さんだから話しますけどね。高津栄子は以前に不正受給をしていたんですよ。黙ってスナックで働いていたんです。不正受給を見逃す代わりに、保護を辞退してもらった経過がありますので、そうおいそれとは保護をかけられませんよ」
「でも、事態は急迫しているんです」
「少し、所内で検討させてもらえませんか?」
「明日にはお返事を戴けますか?」
「わかりました」
 栄太郎は頭を抱えて電話を切った。
 程なくして、市役所裏口の灰皿の前に栄太郎と高橋係長の姿を見ることができる。栄太郎からの報告を受けた高橋係長は、煙草の煙の行方を目で追いながら、「うーむ」と唸った。
「で、北島としては、どうしたいんだ?」
「確かに保護をかけるのは悔しいですけど、病院との関係を悪化させたくないこともあるんですよね」
「それだけか?」
「は?」
「本当は高津栄子に同情しているんじゃないのか?」
「ああ、まあ、はい……」
 高橋係長の言ったことは図星だった。栄太郎の中には高津栄子の保護廃止に対して、どこか胸につかえるものがあったのだ。それは不正受給までして、昔、棄てた息子に仕送りをしていた母の愛情にほだされたのかもしれない。栄太郎の心の片隅には、いつも高津栄子がいたのだ。
「まあ、仕方ないだろうな。口惜しいのは事実だが、今回はナナハチを大目に見ても同情する余地はある。北島の好きにやれよ。地区担当員は想いが大切だ」
「ありがとうございます」
 栄太郎は晴れやかな顔をして、高橋係長に頭を下げた。高橋係長は「もう不正受給はしないという、念書を取っておけよ」と言い添えた。

 翌日、栄太郎は帰帆総合病院を訪れていた。ケースワーカーの迫にまず挨拶をし、高津栄子の病室へと向かった。
「すみません。本当はお願い出来る立場じゃないのに……」
 高津栄子はしおらしくそう言った。栄太郎は「いいんですよ」と言って、生活保護の申請書を差し出した。
「もう私、長いことないらしいんです……」
「え?」
「あれから二カ瀬駅前の肉屋で働き、夜はスナック。これでも頑張ったんですよ。でも急に不正出血して……。検査の結果、肺にも子宮にも癌が転移していて、手遅れだって先生が言っていました。入院も長引くことはないって……」
「後は在宅で通院ですか?」
「いよいよになったらホスピスを紹介するって先生が言っていましたわ」
「そうですか……。でも、頑張って病気と闘いましょうよ。息子さんに一目、会いたくないですか?」
 すると、高津栄子は「ふう」とため息をつきながら、窓の外の景色を眺めた。
「そりゃ、息子にだって会いたいわよ。でもね、棄てた息子だからね。会ってくれるかどうか……」
「息子さんには僕から連絡を入れてみますよ。確か三徳園という児童養護施設に入所していましたよね。僕も僕なりに考えてみたんです。息子さんを施設に預けるには断腸の思いだったでしょうね」
「ううっ……」
 高津栄子が嗚咽を漏らした。
「息子は私を恨んでいるでしょうね。でも、一人じゃ育てられなかった。育てられなかったのよ……」
 栄太郎は立ち尽くして、高津栄子の泣く様を見ていた。高津栄子の息子、貴は非嫡出子だった。おそらく、高津栄子は人には言えないような苦労をその背中に背負っていきてきたに違いなかった。少なくとも栄太郎にはそう思えた。
 高津栄子はひとしきり泣くと、「あんのことになったのに、本当に御免なさい」と言って、保護の申請用紙にペンを走らせた。
 申請用紙を受け取った栄太郎は高津栄子の主治医の元へ足を運んだ。病状を聴取するためだ。
「そうだねぇ、持って二、三ヶ月というところかねぇ……」
 主治医の井田医師はカルテを見ながら、そう高津栄子の余命を語った。
「二、三ヶ月ですか……」
作品名:それぞれの死 作家名:栗原 峰幸