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赤のミスティンキル

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 しかし今度は、前方から吹き付けてくる風が徐々に大きくなってきているのにミスティンキルは気付いた。手前に張り巡らせた幕が薄くなってきている。先に魔導を会得したとはいえ、知識や感覚としては全く身に備わっていない彼にとって、どうやら話すことに神経を向けると、他のこと――魔法を維持させることがおろそかになってしまうようだ。ミスティンキルは「悪い」とウィムリーフに合図をすると体勢を元に戻し、魔力を抽出して幕を強化するのだった。

 そう四苦八苦しているうちに。
【……もう出るぞ】
 龍の言葉が聞こえた。
 ばっという音の次に静寂がおとずれ、目もくらむような光に包まれる。
 そして五感がまったく瞬時に切り替わった。寒さは和らぎ、風切り音は止み、視界はまばゆい青になり、太陽が注ぐ。
 ついに彼ら三人は分厚く折り重なっていた雲の層を突破し、澄明な上空へと飛び出したのだ。




(二)

 雲の上へ飛び出したアザスタンは急上昇をやめ、巨大な翼を水平にのばして滞空する姿勢を取った。
「わあ、下が真っ白! そうか、“雲の海”っていうのはこういうことを言うんだ! ああ、でもあっちの低くたれ込めているのは嫌な色……あれが雨雲ね」
 ウィムリーフは子供のように喜びはしゃいでいる。そしてすくりと立ち、満足げに周囲を歩き回ると、気持ちよさそうに大きく背伸びをした。
「アザスタン、海に出るまではまっすぐ南に飛んでちょうだい。ただし飛ぶ速さは今までの半分くらいに抑えてね。――海に出るより先に夕方が来てしまうかもしれないけれど、急ぐ旅でもないし」
【了解した】
 雲海の上、風に乗るかたちで蒼龍は静かに滑空していく。気候は冷涼ながらも、先ほど雲の中を突っ切っていたときに比べれば風もなく穏やかだ。頭上を遮るものはなにもなく、ただ紺碧。
 ウィムリーフは荷物のひもを解き、まっさらな冒険日誌を取り出した。彼女はあぐらをかいて座り込むと、今まさに自分の目に映っている雲海の様相を描き出すべく、ペンを走らせた。

 龍の姿勢がようやく水平になったのを知ったミスティンキルは、アザスタンの背にべたりとうつぶせになり、そのまま四肢を大きく伸ばした。精根が尽き果てているのが分かる。なにもできない。彼は翼をしまうと大きく一呼吸した。
 長いこと恐怖にも似た緊張を感じていたためだろう。全身の筋肉がすっかりこわばってしまっている。いつの間にか首の筋をちがえてしまったようで、思いもよらぬ痛みのために彼はうめき声を上げた。
「……あんまり力みすぎたからよ。湿布でもしたほうがいいかしらね?」
 ウィムリーフは写生をやめ、ミスティンキルを見た。じろりと、ミスティンキルは恨めしそうにウィムリーフのほうを見る。
「ウィムよう。お前さんはなんでそうも平気でいられるのかね?」
 ミスティンキルは力なくウィムリーフに言った。
「ミストと違って、あたしは力任せにしがみついてたりしなかったもの。アザスタンの飛び方には最初びっくりしたけど、風の助けと翼の使いようで、勝手が分かったらあとはそれほど苦でもなかったわ」
「さすが“風の司”ってやつか。おれはしがみつくのが精一杯で、翼を使うとか魔法を使うとか、そっちまで頭が働かなかったからなあ。……っ……。なんでこんなひでえ目に遭わなきゃならねえんだ……」
「魔法を使って癒すとか、そういうことはできないの?」
「そんな魔法もあるに違いないけどな。自分の中から魔法を探るのってのはけっこう疲れるんだぜ。心身ともにな。……今はとてもそんな気になれねえ」
 元気な口調のウィムリーフが恨めしい。この疲労の半分でも分けてやりたいとすらミスティンキルは思った。
「……ともかく助けてくれ。痛くてたまらねえ。さするなりなんなり、してくれねえか?」
「ミストがそうまで痛がるなんてよっぽどのことねえ」
 言いつつウィムリーフは日誌をいったんしまうと、龍の背びれをひらりと乗り越えてミスティンキルの横でかがみ、彼の肩や背をさすった。そのたびにミスティンキルは小さくうめく。
「わあ、この凝りかたは酷いわね! ずいぶんと痛いでしょう?」
「正直言って動きたくねえな。……なあ、ウィムのほうは魔法は使えるのか?」
「え?」
 ウィムリーフは一瞬きょとんとした。
「今まで考えたこともなかったな。そういえば月で魔導師の……ユクツェルノイレさんが言ってたっけ。『魔導は君達二人に託したい』って。あの時、あたしも一緒になって魔導を復活させたんだから、ミストだけが魔法を使えてあたしが使えないっていうのも変よね。うん! やってみる。どうすればいいのかな?」
「おれの場合は『こうしたい!』と心の中で願った。そうすると心の奥底からふっとわき出るように魔法が出てきたんだ。呪文だって同じだ。おれ自身、難しいことはしてねえし、考えてもない」
 昔から口べたで、人にものを教えることが苦手だというのはミスティンキル本人も分かっている。自分の感覚がうまく伝えられないもどかしさを苦々しく感じながらもミスティンキルは答えた。
「……ふうん。……なんていうかな、魔法って聞くと普通はもっといろいろと手間のかかるもののように思えるんだけど、魔法を使う本人にとってみれば意外にそうでもないのかしら。あたしたちアイバーフィンが風を操ってみせるのと同じような感覚だと考えていいのかな……とにかくやってみるわ」

 ウィムリーフは目を閉じ、両の手のひらをミスティンキルの背中に当てた。意識を集中させているのだろう、彼女の両腕が力んでいるのが分かる。
 しかしいくら経ってもその腕から魔力が放たれることはなかった。
「……どう?」
 自信なさそうにウィムリーフが尋ねる。
「悪いけれども……」
 ミスティンキルはかぶりを振った。はあ、とため息を漏らしてウィムリーフは両腕から力を抜いた。彼女の落胆ぶりが伝わってくる。
「『癒しの力よ来い!』とか『出ろ!』とか色々願ってはみたんだけれど……駄目ね。ミストだったら例えばどういうふうに願う?」
「やっぱりお前と同じだよ。『やる気出ろ!』みたいにな。……とにかく俺からはそういうふうにしか答えられない。理屈じゃなくて感覚で魔法を使っているんだろうな。だからウィムのやり方と俺のとでなにがどう違ってるのか、俺には分からない」

 彼女はやや憮然としながらも何回か魔法を試してみたが、結果に変わりはなかった。
「あたしは……駄目なのかしらね」
 しまいにウィムリーフは自嘲気味に笑みを浮かべて空を見上げるのだった。
「ウィム」
 ミスティンキルの言葉にも彼女は目をつぶって小さくかぶりを振るばかり。ミスティンキルは雰囲気を察し、なにも声をかけないことにした。しばし沈黙。彼女は今、どんなことを心の中で思っているのだろう? ウィムリーフには魔導は継承されなかったというのだろうか?

◆◆◆◆

 しばらくしてウィムリーフはすくりと立ち上がった。
「うん。……仕方ない。まだ痛むでしょう? 湿布をしてあげるわ」
 きわめて普段どおり、軽やかな足取りで龍の背びれをまたぎ、ウィムリーフは薬を取り出した。
「不公平よね。なんであたしにはなにも――」
作品名:赤のミスティンキル 作家名:大気杜弥