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赤のミスティンキル

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§ 挿話一 フェベンディスにて



(一)

 ミスティンキルとアザスタンがエツェントゥー老から、ラミシスの王国についての様々な事件や伝承などを聞き、一方でウィムリーフが部屋に閉じこもり独力で調べ上げているちょうどその頃。
 レオズス――ハーンとエリスメアはアルトツァーン王国西の港町、フェベンディスへと到着していた。

 フェベンディスは、東方大陸《ユードフェンリル》最大の港町だ。西方大陸《エヴェルク》行きの商船、旅客船はすべて、この港から出港するのだ。十一月の終わり頃、流氷がエヴェルク大陸の沖に押し寄せてくる時節まで、行き交う船が絶えることはない。ユードフェンリル大陸では見かけることの少ない民族達が数多く訪れ、街は繁栄し大いに賑わう。さながらアリューザ・ガルドにおける人種のるつぼである。
 またユードフェンリル大陸内においても、ここは海洋貿易の最重要拠点だ。北方ナルデボン地方や南方オルジェス地方との間に毎日のように船が往来している。
 ただし冬の間は北方貿易の海路は閉ざされる。巨大な流氷群がナルデボン地方の岸辺にまで押し寄せるためだ。一方、流氷とは無関係の南部に向けての航路は、開かれているように見えても実のところ往来は極めて困難だ。穏やかだったグエンゼタルナ海の様相は一変し、潮流の速い荒れた海になってしまうためだ。そのために、南部への貿易は春まで待たなければならない。春になっても、しばらくの間は陸路を使った貿易しか行われない。

 ハーン父娘が目指すは、ミスティンキル達が滞在しているオルジェス地方デュンサアル。しかも出来るだけ早く到着しなければならない。
――「魔導の力は諸刃の剣。しかるべき者が扱うべきだ。運命に弄ばれるような意志の弱い者に魔導を任せておく訳にはいかない――“魔導の暴走”の再来だけは避けねばならないからな」
 ハーンの長きに渡る友人であり、エリスメアにとっては魔導の師にあたる白髪の老エシアルル、ハシュオンはこのように言った。魔導のなんたるかを知らない者が、それとは知らないままにまかり間違って恐るべき魔導を発動させてしまったら――!
 “魔導の暴走”。
 ハシュオンとハーンの記憶の奥にしまわれているあの惨劇とそれに続く悲劇を、もう二度と再び起こすわけにはいかないのだ。

 急ぐがゆえに、ハーン達は陸路ではなく海路でもってデュンサアルに行くことに決めた。王都ガレン・デュイルからデュンサアルまで、歩いていけば一ヶ月以上はゆうにかかってしまう。だが船を使えばほんの四日間ほどで港に着き、そこから歩くこと一週間でデュンサアルまで到着できるのだ。春半ばのこの時期に船が出ていれば、の話だが。
 エリスメアが“転移”の魔導を行使でき、かつデュンサアルのイメージを脳内に描写できるのであれば、ほんの刹那のうちにデュンサアルに到着できよう。しかし、あいにくとエリスメアほどの術者であってもかの魔導は扱いかねた。転移のすべは、魔導の極みのひとつ。それを我がものとして扱えるほどの魔法使いは、今のアリューザ・ガルドではただひとり、ハシュオンをおいて他にいないだろう。

「やあ、海が見えるよ。きらきらと奇麗だなぁ……よく晴れている。西方大陸《エヴェルク》行きの船は出ているようだけど、はてさて、南方行きの船なんか今の時期出ているのやら。まだ海は荒れているだろうしねぇ」
 アルトツァーンの王都ガレン・デュイルから歩くこと一週間。ここ港町フェベンディスに到着して、小高い丘の上から町の中心部に向かって降りていくさなか、ハーンはまるで他人事のようなのんきな口調でそう言った。
「そう言ってる割には余裕があるように見えるんだけど、父さま」
 エリスメアがそう言うと、ハーンは自分の人差し指を彼女の唇にそっとあてた。
「おっとエリス。街の中では父さま、じゃないだろう? 昨日言ったじゃないか」
「……そのぅ、……“兄さま”」
 エリスメアはやや照れた口調で言った。

 彼ら父娘は本当の親子であるのだが、唯一大きく違っている点がある。それは種族の違い。エリスメアが人間――バイラル族であるのに対して、ハーンは闇を司るディトゥア神――“宵闇の公子”レオズスということだ。ディトゥアの血を引くエリスメアも神として生きる道があったが、彼女は思うところあって母と同じく人間としての限られた生を全うする道を選んだ。
 ともあれ、他の人間からすれば、今の彼らは見た目のうえでは親子というより兄妹と思われるだろう。

「でもそのうち年が経てば、父さまのほうがわたしのことを姉さま、って呼ぶことになるのかしら?」
「うむ……きついこと言うねぇ」
 ハーンにとって今の言葉はやや堪えたようだ。ぽつりと漏らしたエリスメアは、とくだん悪気があってそう言ったわけではないのだが。
「と、とにかくだよ。確かに今の季節、デュンサアル行きの商船を見つけるのは難しいだろうね。まだ海が荒れているだろうから。でも大丈夫。街道で一緒になった商人が教えてくれたじゃないか、ディリスコンツ商会ってところを。……まあほら、どのみち悩んだって仕方ないさ。それに、こういう時の僕ってけっこう運がいいんだよ? だからさ、安心しなさい、“妹”よ。船は出させてみせる!」
 そう言ってハーンはぽんぽん、とエリスメアの肩を叩いた。
「根拠のない自信は昔と変わらずね、……兄さま」
「それがティアー・ハーンだからね!」
 ハーンはにこやかに笑った。

 ディリスコンツ商会は、古めかしい石造りの建物が並んでいる商業地の一角にあった。入り口の左右にアルトツァーン騎士の彫像が彫り込まれているその門構えは、この商会がある程度由緒正しいものであることをあらわしている。この家の紋章が彫られた両開きの木扉をぎいっと開けると、薄暗い玄関の奥から給仕の女がやって来て、エリスメア達を出迎えた。ハーンがデュンサアルに行きたいので主人と話をしたい旨を伝えると、女はやや怪訝そうな顔を浮かべたが、すぐに表情を戻し、主を呼びに奥の部屋へと入っていった。

◆◆◆◆

 商会の主にして商客船“凪の聖女”の船主、そして船長でもあるディリスコンツ男爵は、突然やって来た珍妙な客の無理な願いを一蹴した。
「海蛇《ウォンツァ》の牙にかけて、ああ、なんて客だ! 無茶もいいところですよ、客人! 優れた水夫が束になったってそんなことは無理だ……」
 おもむろに男爵は――男爵とは似つかわしくない、髭もじゃで中背の男だが――くわえていたパイプを一吹きして煙をくゆらせる。
「まだ三週間は早いですよ、お客さん。グエンゼタルナ海の潮の流れは速くて読めないし、春の強い東風が船を思わぬ方向にめぐらせる……。暗礁に乗り上げたり、海蛇の巣にでも迷い込んだりしちまったら、それこそ一巻の終わりだ! ……ここは諦めて、陸路を歩んだほうが賢明だと思いますがね。悪いことは言わないからお戻りなさい」
 ディリスコンツは大げさに肩をすくめて拒絶の姿勢を露わにしたが、ハーン達は引かなかった。
作品名:赤のミスティンキル 作家名:大気杜弥