赤のミスティンキル
「だけれども……僕たちは一刻も早くデュンサアルまで行かなければならない。海路を使った方が早いのは明らかなのです。……陸路では遅すぎる。それに、旅先であなたの船の誉れを聞いてここにやってきたんです。『ディリスコンツ商会に頼むのが一番確実だ』ってね。もちろん僕にだって、今の時期の海が行く手を阻むくらいのことは分かってます。……では、どうすれば船を南東の方角に向けられるか、手段がまったくないわけじゃあないんでしょう? あと何が足りませんか? 言って下さい。僕たちに出来ることであれば……」
「“海の司”が必要だ」
男爵は即答した。
“海の司”とは風や潮を操る魔法使いの呼び名である。風を起こしたり、天気を変えたりするすべを持つ“海の司”がいれば、航海の無事は約束されたようなものだ。だが男爵の言う“海の司”とは、並の魔法使いでつとまるようなものではないようだ。
「……けれども“海の司”がいたからといって、あの荒れるグエンゼタルナ海に挑むというのは自殺行為に等しいってもんです。あの海をなめてかかって命を落とした奴を、私は何人も知っています。
「追い風を呼び込む腕前を持つ“海の司”ならばまだ数は多かろうが、潮の流れそのものを支配できる魔法使いなんて……。あんたがたも知ってのとおり、そんなたいそうな魔法を使える人間など、今の時代ほんの一握りですよ。千年前だったらそれこそ多くの魔導師達がいたでしょうけどね。仮にそんな大魔法使いがこの港町にいたとしても、一回の航海に雇い入れるだけで足が出てしまいます。私の家は五代前から爵位を頂いているが、その前に商人ですからね。儲けにならないような話はとうてい受け入れられない」
それを聞いたエリスメアが、つと前に出て右手を軽く挙げた。
「私がその役目を担います。私にとって、潮流や風向きを変えることなどいとも容易いこと。もし私の力を疑うならばよろしい。小舟を一隻貸して頂けませんか? 舵をとらずともこの港の中を自在に操ってご覧にいれましょう」
ハーンもエリスメアにならうかのように一歩前に出ると、彼の頭を飾っていた金色の飾り物をはずした。
「それじゃあ僕も。……船を動かすには何人もの水夫が必要でしょう? これを閣下に差し上げます。これは混じりっけなしのカラファー金で創られた頭飾り。あと、中央部の大きな宝石は青水晶《リフィ・バルデ》。そんなものだから、出すとこに出せば、かなりの値段が付くと思いますよ? そう……僕だったら少なくとも二万ガルディはつけたいところですねぇ」
「二万ガルディだって?!」
金色に輝く宝飾を受け取った男爵は驚き声を上げて思わずたじろいだ。二万ガルディといえば、一年間は無事に暮らしていけるだけの金額だ。もちろん、商船を動かすには十分な額と言える。
「なんだってこんなたいそうなものを、あんたのような若い方が……」
ディリスコンツはハーンを物色するかのように頭から足下に至るまでじいっと見るのだった。
「それにあんたが腰に下げているその黒い剣……大した代物のようだ。おまえさん、なみの人間じゃあないね? 一体何者……?」
ハーンはそれには答えずにただ微笑するだけだった。
「ああ、いちおう言っときますけどね。別に僕らがお尋ね者とか、なにかご禁制のものを船で運ぼうとしてるとか、そういうわけじゃないですからね? 僕ら二人を運んで頂くだけ。僕たちの望みはそれだけですから」
男爵は頷くしかなかった。どうやら話はまとまりそうだ。ハーンはにやっと口を歪ませると、取引をまとめようとした。
「さて、と。資金はご提供した。有能な“海の司”はいる。……ここはひとつ、船を出していただけませんか? あなたも商品を積み込めば、今の時期だったら相当な高値で売りさばくことが出来ると思いますよ? どうでしょう」
ディリスコンツは唸り、目を閉じて腕を組むとしばしの間考え込んだ。
そして彼の口がゆっくりと開いた。
「……二日間、時間をいただきたい。協会に申請を出して承認を受けなければならないし、人手だって集めなきゃならない。それに積んでいく荷物もだ。色々と準備が必要なのですよ」
「じゃあ、出していただけるんですね! 船を!」
ハーンとエリスメアはお互いの顔を見合わせ、ほころばせた。
「まったく、こんなふうに無理を押し切りとおしたお客ははじめてだよ」
ディリスコンツは苦笑いをした。
「だけど気に入った。あんたはたいした取引上手だ! 二日後の朝二刻目に、南の桟橋まで来て下さい。我が家の紋章を船首に描いた白い船が、“凪の聖女”号ですよ」
男爵は右の手をすっと伸ばしてきた。ハーンは両手でディリスコンツのごつごつした手を包み込むようにして、握手を交わした。話し合いはついにまとまったのだ。
◆◆◆◆
「ねえ父さま……兄さま。交渉があまりにお上手なんで驚いちゃったわ」
商会をあとにして、宿を探す道すがらにエリスメアが口を開いた。
「そりゃあまあ僕がいくらディトゥアだと言っても、人の世で暮らしていくには話術が巧みなほうがいいに決まってるからねぇ。生業《なりわい》としてタール弾きをやったり傭兵をやったり……そんな長年の経験の積み重ね、ってやつかな」
「でも……頭飾り、あげてしまわれたけど、果たしてよかったのかしら? あんな高価なものを」
ハーンは笑って、軽い口調で答えた。
「ああ、あれね! ……種を明かしちゃうとね、実のところはそんなにすごく高価なものじゃないんだ。僕が買った時は千ガルディくらいだったかな、まあそこそこ値は張るけど、宝飾品としてはまあ妥当な金額で、目玉が飛び出るような金額ほどじゃないだろう?」
「え……。じゃああの主人が宝石鑑定に出して値段がばれちゃったら……」
「その辺は大丈夫だよ。あれは今やただの飾り物じゃなくなってるのさ。ほら、今の時代だと、魔法が付与されたものなんてそうそう出回るものでもないだろう? けれどもあれには闇の守護の力を込めた“法”をかけているからね。レオズス直々に魔力を込めた貴重な一品だよ!」
ハーンは言葉を続けた。
「……しかしさ。僕のほうこそ驚いたよ。まさかエリスがそこまで魔法を使いこなせるようになってる、なんてね。僕は人間の魔法についてそんなに詳しく知ってるわけじゃないけど、潮の流れを操るなんていったら、かなり高度な魔法なんじゃないのかい? よく知ってたね」
「ああ、それね! ……実はこれからこの街の図書館に行って、魔法についての本を借りようと思うの。風はともかくとしても、海をなだめるにはどうしたらいいか、実はまだ知らないのよ。ちょっとした賭けだったわね。あの場で『見せてみろ』と言われなくてよかったわ。でもよかった。二日もあれば魔法書を読み解くには十分な時間だもの!」
それを聞いたハーンは呆気にとられたが、次に堰を切ったように笑い出した。
「あはは……。うん、エリス。お前もたいした取引上手だよ。さすがはこの“宵闇の公子”の娘! 見事だよ」