赤のミスティンキル
彼女はそう言うと、本につきっきりとなった。その様子は、役人の試験に打ち込むバイラルの学生でも、これほど熱心に打ち込むことはないのではないかと思わせるほどだったので、ミスティンキルは言葉を返す機会もなくただ部屋の中で手持ちぶさたになってしまった。少しでも暇つぶしになればと思い、前の冒険行の大ざっぱな下書きを読んでみることにしたが、彼が判読できるだけの単語は数箇所程度しかなく、茶一杯を飲み干す時間で文章の最後まで行き着いてしまった。
どうやら部屋に閉じこもって読めもしない文字と格闘するという行為は、自分にとって苦痛に感じるだけで暇つぶしにすらならない。かといって文字をあらためて勉強するだけの気力などは持ち合わせていない。何かできないものだろうか。
色を取り戻すための冒険を終えて、冒険誌の下書きを書く際にはウィムリーフの手伝いを強いられたが、この時はあまり乗り気がしないものだった。何せウィムリーフときたら、休むことなく一日中この作業を行っているのだから、ミスティンキルも休む機会をしばしば失ってしまって愚痴をこぼしていた。しかし人間の感情とは不思議なものだ。今回のように、何もしなくていいと言われるとかえって何かをしたくなるものだ。この部屋に留まったところで本を読むことなどできやしないし、読書に没頭しているウィムリーフが遊びに付き合ってくれるなど考えられない。
ならば。
ミスティンキルは思い立ち、ウィムリーフに声をかけた。
「ウィム。おれはちょっと外に出てくる」
ウィムリーフは顔をミスティンキルの方に向けて小さく頷くと、再び机に向かった。
ミスティンキルが宿の外に出ると、ちょうど戸口でアザスタンと出くわした。今まで空を滑空していたのだろう、アザスタンの翼はまだ広がったままだった。
「あんた、また来たのか。ご苦労さま。残念だけどな、ウィムに用事があるってんなら今は無理だぜ。あいつ、熱中しだすと他のことなんか目に入らなくなるからな」
「ぬしらの調子が元に戻ったというのならば問題ないのだが。まあ、お前もこれから自重することだ。無鉄砲に行動すればああいう目に遭うと、身にしみて分かっただろう」
たしなめられたミスティンキルは、うるさいな、と言わんばかりに顔をしかめた。
「とにかくだ、この数日はあいつに近づこうとしても無駄だぜ。話し相手にするには無愛想きわまりないだろうしな。……そうだ、あんたが暇だっていうんなら、おれと一緒に来ないか?」
「わしはお前達の行動を見守る身だ。暇、という言葉にはひっかかるものがあるが……お前は何をしようとしている?」
「“司の長”の所に行ってみる」
ミスティンキルは答えた。
宿場の通りを共に歩いていると、人々の視線を感じる。アザスタンはまたもや龍戦士の格好をしているため、界隈の人々は敬意のまなざしを彼に向けているのだ。中にはひざまづいて頭を地面につける者すらいる。こういった雰囲気にミスティンキルは慣れていない。注目されている対象は龍戦士アザスタンのほうで、自分に向けられているわけではないのだが、衆目の視線が自分達に集中するというのは苦手だった。そんな人々の視線から逃げるように、ミスティンキルは上空へ舞い上がるのだった。アザスタンも遅れて飛び上がる。
「一体なにをしようというのか?」
「昨日ウィムが言ったとおりだ。ラミシス遺跡に行くための手がかりがないか、訊きに行くんだ」
ミスティンキルは、岩山の頂にある司の長の居住区を目指した。かつて“司の長”を訪れた時には一刻近くもかけて登ったものだが、翼を得た今となってはそのような苦労をしなくて済む。
「ミスティンキルよ、もう少しはやく飛べんものか? この遅さでは翼をはためかすのにかえって気を遣うのだぞ、わしは」
「あんたにとっては遅いかもしれねえけどな、こっちは頑張って飛んでるんだ。だいたいさっきから文句ばっかり、たらたら言いやがって、龍ってのはあまり喋らないもんじゃあねえのかよ?」
「龍のことばはそれが魔力を持っているからともかく、共通語にはそう大した力があるわけでもない。だからこうして思う存分にお前に対して存分に文句が言えるというものだ。そら、早くしないとおいていくぞ」
「ああもう! あんたってやつは、どうしてこうも気の障ることばっかりぬかしやがるんだ。むかつく!」
彼らが口げんかをしているうちにも、岩山の頂にたどり着こうとしていた。
人が住まうアリューザ・ガルドにあって、ラミシス遺跡から最も近い場所がデュンサアルだ。そうであれば、デュンサアルの長達が何かしら遺跡についての事柄を代々継承して知っていてもおかしくはないだろう。あのマイゼークの面を見るかもしれないということはミスティンキルにとって嫌なことではあったが、エツェントゥー老であればこころよく自分達を迎えてくれるに違いない。
(ウィムに知ったふうな顔をされてあれこれ教えられるってのも、なんとなく癪だからな。あいつが本から知識を吸い出そうっていうんなら、おれのほうで調べられるところを調べておいて、いざとなったらあいつにすごいと思わせてやろうじゃないか)
当初はまったく気乗りのしない冒険行であったが、いざ調べ上げることになると、彼が元来持っている負けん気の強さが顔を出すのだった。
地面に降り立ったミスティンキルは咳払いをして、“集いの館”の扉を叩いた。
◆◆◆◆
しばらく経って扉から顔を出したのは、はじめてここに来た時と同じく、司の長の一人で彼らの中ではもっとも若いファンダークだった。
〔アザスタン様。それにミスティンキルどの。ようこそおいで下さった。今回はどのようなご用向きかな?〕
最初会った時と同一人物かと訝りたくなるほど、彼の言動は慇懃《いんぎん》だった。ミスティンキルは、ラミシス遺跡のことが知りたいのだが長達が何か知っているかどうかと尋ねた。ファンダークは二人に中に入るよううながすと、二人を先導するかたちで廊下を歩いていった。
〔ラミシス遺跡というと、ここから海を越えて南東の島にあるといわれる昔の国のなごり、ですな? かの国は魔法学に――忌まわしい魔法ではあったわけですが――長じていたのですから、ミスティンキルどのが興味をいだくのも分かる話です。残念ながら私には遺跡の詳細は分かりかねますが……〕
最初にここを訪れた時とはまったく異なる対応だった上に、ファンダークがあまりにも丁寧な言葉遣いをするものだから、思わずミスティンキルは吹き出しそうになってしまった。
〔ですが、長老ならばきっと何か知っているはず。エツェントゥー老は今、自分の居室におられるはずですので、そこまでご案内しましょう〕
三人は、会議室の扉の前まで着いた。するとファンダークは突き当たりを右へと曲がり、会議室に沿うようにして左に曲がりくねっている廊下を歩き始めた。程なくして彼らはひとつの扉の前に行き着いた。扉の上にある表札にはなにやら文字が書いてあるようだった。
「……エツェントゥー。そう書かれているな」