赤のミスティンキル
§ 第一章 旅立ち
(一)
夢。
眠りに就いている時、人はしばしば夢を見ることがある。たとえばバイラルの商人だろうと、数百年を生きているエシアルルの民だろうと関わりなく、誰しも夢を見るものだ。
けれども朝起きた時、夢の内容をどれくらい把握しているかについては人それぞれだ。情景や登場人物などが薄ぼんやりとしか思い出せない者もいれば、夢物語の内容や夢の中の人物が喋った言葉まで的確に把握している者もいるのだ。
ミスティンキルとウィムリーフは、この点において大きな違いがあった。まだ二人がアルトツァーン王国内に滞在中だった時分に、今朝見たお互いの夢の中身について何度か話題にしたこともあった。たいていの場合、ミスティンキルはほんの半刻前に自分が見ていた夢ですらあまり覚えておらず、逆にウィムリーフはどういった場所に誰が登場してどんなことを喋ったか、という詳細まで明確に覚えていたものだった。
どのような夢を見たかを忘れがちなミスティンキルが、ある程度夢の内容を覚えている時というのは、決まって彼が悪夢にうなされた翌日のことだった。九ヶ月前、彼は辛い思いと共に故郷をあとにしたわけであるが、それまでに蓄積された心の傷はそう簡単にふさがるものではない。たまに“夢”というかたちをとって、自分一人の胸の内に抱え込んだ憤まんが傷跡から膿のようににじみ出てくるのだった。
夢にうなされるという経験を持たないウィムリーフは、苦しむミスティンキルの様子をただ見守ったり、夢を見たあとに彼をなだめるほか無かったものだ。
それが、ここ最近になって変わってきた。
原因のひとつは、月からデュンサアルに帰ってきてからというもの、二人に対する待遇がそれまでと大きく変わったことだろう。デュンサアルに到着したばかりの時、彼らは冷たくあしらわれたものだ。ミスティンキルは“ウォンゼ・パイエ《海蛇の落人》”と“司の長”から罵られたし、ウィムリーフに至っては身の安全のために髪を黒く染め上げ、自らがアイバーフィンであることを隠していたのだ。
だが今や二人はちょっとした英雄待遇だ。世界の色を取り戻すために冒険をした、という事実によってデュンサアルやその付近の村人達は彼らを歓迎し心を開くようになり、一緒に旅を続けてきた吟遊詩人からは、二人を讃える唄を作らせてほしいとせがまれるようになった。“炎の司”となったミスティンキルは、“司の長”の筆頭であるエツェントゥーから一目を置かれる存在になったし、ウィムリーフも銀髪であることを気にせずに出歩けるようになった。デュンサアルの住民は、外に住まう者に対してもっと心を開くべきだ、という意見がもっともらしく聞かれるようになったのもつい最近のことだ。
“聖地を守護する選ばれた者”という事はデュンサアルに住むドゥロームにとって大いなる誇りであったが、その誇りは知らず知らずのうちに驕慢と化し、いつしか古いしがらみから抜け出せなくなってしまっていた。
ミスティンキル達二人の存在は新たな風となり、凝り固まったデュンサアルに大きな波紋を起こした。新しいデュンサアルが、これからようやく形成されていくのかもしれない、そんな期待を大いに抱かせる昨今であった。
そしてミスティンキルもまた、過去のしがらみから解き放たれたのだ。
魔導の封印を解き放って月の界から帰還してから早二週間が過ぎようとしているが、およそウィムリーフの知る限りではミスティンキルは夢にうなされたことがない。ドゥロームとして“炎の司”という確固とした立場を自分の力で築き上げたことと、色の異変を正したという大きな事柄をやってのけた達成感が、彼に本当の自信をつけさせたのだろう。
それまで忌むべきもの以外の何ものでもなかった赤い瞳は、今や彼の魔力をあらわす象徴であり、ミスティンキル自身の誇りとなった。
ミスティンキルにとっての悪夢は終わりを告げたのだ。
ウィムリーフは――変わらず夢にうなされることなどはなかった。しかし、それまでとは何かが違って来つつあるのを彼女自身認識していた。
◆◆◆◆
(……あの夢の……続きか……)
自分でも気が付かないうちにいつしか机に伏していたウィムリーフは、ふとした拍子に目を覚ました。窓から差し込む光はすでに弱まっており、日が暮れて間もないことをウィムリーフに教えるのだった。気だるげな面持ちのまま部屋の周囲を見渡すが、ミスティンキルの姿はない。先刻、彼女が本を読んでいる時分には部屋にいて、所在なさげに椅子に腰掛けていた彼だったが、ウィムリーフが寝てしまったためだろう。おそらくはこの宿から外に出て、今頃は近くの酒場で気の合ったドゥローム同士と酒を酌み交わしているに違いない。
これが冒険記の編纂中であれば、ミスティンキルに手伝ってもらうために有無を言わさずに彼を酒場から連れ帰ったこともしばしばあったが、編纂が無事に終わった今となっては、彼の憂さ晴らしをわざわざ邪魔しに行く必要もない、とウィムリーフは思い、再び机に突っ伏した。
目を閉じると、先ほどまで見ていた夢の様子が再現されるようだった。生来、夢の内容をよく覚えているウィムリーフだったが、とくにここ最近の夢は、奇妙とまで言える現実感を伴っているように彼女には思えた。夢の情景や出来事は荒唐無稽なものではなく、きちんとした現実性を持っていたし、一日前の夢の続きを見る、などといったこともしばしば起こっていた。
夢の中の彼女はどこかの宮殿にいるようだった。純白の壁と黒々とした床、銀の装飾物によって形成された、美しくもどこか寒々しさを感じさせるこの宮殿内部の情景は、ウィムリーフがこれまで実際見た覚えなどまったく無い。少なくともフィレイク王国やアルトツァーン王国、さらに彼女の生まれ故郷のティレス王国のどの建築様式とも異なっている。しかし奇妙なことにウィムリーフの意識は、どういうわけかこの情景に対して懐かしさ、親しみすらをも感じるのだった。この宮殿は、どこにあるのだろうか? 聞くところによると、西方大陸《エヴェルク》のファグディワイス王国などは、彼女が知っている国とは赴きを異にしているらしいが、この夢の舞台はその辺りなのだろうか?
昨晩は、部屋にいたところを誰かに呼ばれて外に出るところで夢が終わったが、今し方はまさにその続きを見ていたのだ。
居室から廊下へと出たウィムリーフの意識は、迷路のように複雑で曲がりくねったその回廊を、迷うこともなく目的の場所に向けて歩き続けた。途中、廊下を横にそれて階段を上ると再び回廊が延びている。渡り廊下ともなっているこの回廊はひたすら真っ直ぐ続いており、外の景色が見渡せるようにと大きめの窓がいくつもくり抜いてあるのだった。