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赤のミスティンキル

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 小さなディトゥア神は、あぐらをかいた姿勢のままふわふわと飛び回り、ミスティンキルのところまでやって来た。
「久しいなあ、ユクト。そちらはどう? 変わりはないか?」
 彼はそう言って立方体の表面を軽く二回ノックした。さも嬉しそうな表情を浮かべながら友人の姿を見やっている。
 こうして端から見ると、大きな薄墨色の瞳を輝かせているこの神の仕草は、ひとりの純朴な少年のそれと全く変わらない。ミスティンキルはまた、ぽん、と彼の頭をはたいたが、今度はにらまれることはなかった。

――「……相も変わらず。特に変わりませんよ、イーツシュレウ。私の“存在”という定義そのものが変化したということ以外はね。……あなたが見ている肉体には、すでに私の精神は宿っておりません。あれは半ば死んでいると言っても差し支えないでしょう。魔導を封じたあの最後の時から、バイラルにとってはあまりに長すぎる時を経て、この核の中でいつしか私の精神は肉体から離れゆき……この“封印核”そのものと一体となったのです。今の私は“封印核”に宿った“意識”そのものに他ならないと考えていただきたい」

 太く毅然とした男の声が、立方体の全方位から響く。その声は先ほどまで、重厚な蓋越しに聞いていたくぐもった声と違い、まったく鮮明なものとなっていた。声そのものからは、魔導師が持つ生来の気品が伝わってくる。
 

 そして“封印核”――誰がそう名付けたのか、もはや定かではないが、その立方体の中には人の手では制御しきれないものが封じられている。
 すなわち、当時の魔導師達が費やした労力と蓄えた知恵、そして増大させた魔力。
 それらが無数の小さなしゃぼん玉の中と、封印核の中に充満している空気に、全て凝縮されているのだ。
 たとえミスティンキル本人の意識下では気が付かなくとも、また言葉では表現できずとも、その圧倒的な様に対して、赤目を持つ炎の司の冴えきった感覚は戦慄に震えていたのだ。

「ユクツェルノイレ――そう! 昔……なんかの本で見たことがあるわ、その名前」
 ウィムリーフが額に指をあてて思い出そうとしながら言った。彼女は相変わらず、ミスティンキルから“封印核”をとおして真向かいにいる。
「ええと、たしか……“魔導の暴走”を食い止めるために、魔導師たちの筆頭に立っていた大魔導師だったはず。……それで、そのあと“宵闇の公子”レオズスがアリューザ・ガルドに君臨したときにいつの間にか行方不明になったとか……」

――「君の明瞭な記憶のとおりだよ、翼の民の娘。まさに私のことだ」

 そこでミスティンキルが言葉を挟んだ。
「ちょっと待ってくれ。……それじゃあ、『暁の来復をもたらした者達の勲《いさおし》』に唄われてる、ええと……
『……デルネアはかの剣を見いだし“澱み《よどみ》”より還り来たるも、“まったき聖数を刻む導師”デイムヴィンは遂に戻ることあたわず……』
 というようにある、その“デイムヴィン”ってのが、あんたのことなんだな?」
 ミスティンキルは両手と顔を立方体の表面にぴたりと押しつけ、ほんの数ラク先に横たわる魔導師の肉体に問いかけた。

 そしてユクツェルノイレは肯定した。
――「そう。私のことだよ。ユクツェルノイレ・セーマ・デイムヴィン。これが私の真名」

 そう発せられる言葉と共に、立方体の表面が振動するのがミスティンキルには分かる。

 『暁の来復をもたらした者達の勲』には三人の人間の名が高らかに謡われている。つまり、“竜殺しの”デルネア、“預幻師”クシュンラーナ、そして、森の民エシアルル族でありながらも、卓越した才能と魔力を有する“礎の操者”ウェインディル。
 レオズスを打ち破った三者を讃える勲の中にあって、ほんの数節のみ触れられている名前が“デイムヴィン”である。“まったき聖数を刻む導師”とも呼ばれた彼は、ウェインディルの師であり友であったのだ。

――「私は魔導学の隆盛と暴走、さらにはレオズスの脅威を目の当たりにしてきた。そして魔導学の終焉と……さらに加えて言うならば、時を超えた今この時、まさに起ころうとしている魔導の復活をも……か。私の人生は、つねに魔導とともにあった。帳を降ろすこの時に至るまで、な……」
 大魔導師は感傷的に言った。そして言葉をさらに紡ぐ。
――「もはや限られた時間しかないが、レオズスが出現してから今までに、私が経験した出来事について語らせて欲しい。いや……継承する者には是非とも聞いてもらいたいのだ」

◆◆◆◆

 こうしてユクツェルノイレは、自らの体験を語り始めた。
――「“宵闇の公子”レオズス。彼は“混沌”に魅入られて己を失った、忌まわしくも哀しいディトゥア神だった。レオズスがアリューザ・ガルドに驚異をもたらす存在となり果ててしまったゆえに、人間達は彼を打ち倒すしかなかった。だが、一介の人間ごときが――たとえ魔導師であっても、神に対抗できる技などを身につけているはずもない。アズニール王朝生え抜きの精鋭騎士団ですらレオズスに軽くあしらわれ、彼の操る恐るべき“混沌”の欠片によって抹消されたのだ」
――「我々四名は密かに古い文献を読みあさり、ついに神を倒す手段を見つけた。唯一レオズスを倒しうるという剣を見いだすために、私と剣士デルネアは“閉塞されし澱み”という禍々しい世界に入り込んだのだ。あの世界はとてつもなく強力な力場によって支配されていた。暗黒とひどい臭気と重苦しい空気が常に我々を苛んだ。そして、いくつものおぞましい情景、狂気とも言える超常の空間や、身の毛もよだつような異形の生き物達を常に目にしつつ、それでも正気をなんとか保ちつつ、為すべきことを為すために突き進んでいった。……が、あろう事か私は遂にその空間の異常性に魅せられ、精神が保てなくなってしまった……。しかも我が友をも狂気に巻き込もうとたくらんだが、勇敢なデルネアはそれを拒んだ」
 ユクツェルノイレの声がやや震えてきている。それは悲しみという感情のあらわれに他ならない。何とか押し隠そうとしているのが痛切に伝わってくる。
――「こともあろうか、デルネアと私は正面きって戦うことになってしまった! これは悲劇としか言いようがない!」
――「痛ましい戦いの果てにデルネアが勝った。……その後、デルネアが“名もなき剣”を手に入れアリューザ・ガルドに帰還し、ついに三人によってレオズスが倒されたということ。そしてその後の彼らの顛末については、そこにいる我が小さな友人――イーツシュレウから聞き及んでいる。……我ら四者は皆、大きな悲しみを受けるようにと宿命づけられていたのだろうか……? それとも人智を越えた何かを得るためには、それ相当の代償が必要だというのか……?」

 封印の核全体を振動させ、魔導師の声が響いた。音の余韻がひどく哀しげに聞こえ、耳に残った。

 しばし経ってユクツェルノイレは、その後の自身のことについて語った。
作品名:赤のミスティンキル 作家名:大気杜弥