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赤のミスティンキル

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 だから、ミスティンキルもウィムリーフも、身を震わせてすぐさま戦慄の空間から目をそらした。超常的なその空間は実在感というものに全く欠けており、“炎の界《デ・イグ》”や月世界の様相の幻想的な非現実性を体験してきた二人をもってしても、こればかりはとうてい耐えきれなかった。
 人智を越えたあの異常な空間を見つめ続けていたい、もしくは入り込んでみたいという、相反する欲求もまたあったが、これを受け入れてしまったが最後、狂気に陥るに間違いない。

 ややあって――我に返ったミスティンキルの目の前には、真四角で象られた立方体の底面が現れていた。
 この立方体の高さは、ミスティンキルの背丈の倍近くあるだろう。ミスティンキル達が今見ている立方体の下部にこそ何もなかったが、中部から上には無数の球がふわふわと浮かんでいるのが見て取れた。常に七色に輝きを放っているそれらこぶし大の球体は、しゃぼん玉を想起させるように儚く見えるものの、球体同士が触れあっても割れることはなかった。しゃぼん玉の一つ一つに、魔力が――原初の色が凝縮されているのだ。
 そして、立方体のちょうど中央には――横たわっている人の姿があった。
「ああ、姿なき友ユクト! 蓋が消え去った今、再びじかに君の実体に会えたな。じつに七百年ぶりだ!」
 イーツシュレウは、はしゃいだ声をあげてウィムリーフの横に舞い上がってきた。




(四)

 ミスティンキルとウィムリーフ、そして“自由なる者”イーツシュレウは、空をさらに昇った。
 この空にある尋常ならざる澱んだ空間に、吸い込まれやしないかと懸念したものの、目前にある不可思議な物体に対する好奇心の方が勝った。

 無色透明な立方体の平面は鏡面のようになめらかで歪みひとつ無い。まるでフィレイクあたりの老練の硝子職人が、長い歳月を投じて仕上げたかのような出来映えだ。その立方体の周囲をイーツシュレウがふわふわと浮遊し、ミスティンキルとウィムリーフは、立方体を間に挟んで対峙する格好となった。
 ミスティンキルが恐る恐る上空を見上げると、もとから存在しなかったかのように、あの異質な空間はいつの間にか跡形もなく消え去っていた。
 そうして、いよいよ彼らは、澄み切った立方体の中核部を見据える。

 この物体の中心から真っ先に目に飛び込んでくるのは――深紅、金、褐色という色のイメージだった。彩度の異なるこの三色は、二人の網膜に強く焼き付いた。目を閉じても残像として残るほどに、鮮明に。

 まず、深紅。
 ユクツェルノイレがまとっているローブの色。
 深い赤一色に染め上げられた魔導師のローブは、ドゥロームの正装――炎を象った意匠が前面部に縫い込まれている赤い長衣――に似ているようでいて実はそうではない。ドゥロームの正装とは違い、あの深紅の衣には刺繍や意匠がいっさい施されていないのだ。唯一きらりと光るものがあるのを除けば。
 月の光を受けて銀色に煌めく“それ”は、小さな紋章だった。両襟《りょうえり》すその周囲に小石ほどの大きさの紋章が十三個ずつ取り巻き、そして右胸部にこぶし大のものが一つ縫われている。合わせて二十七個。見たこともない奇妙きわまりない文字が、それぞれの紋章の中心に据えられ、その周りを細微な螺旋文様の紋章が編み紡がれているのだった。
 装束の色と紋章の数が示す事柄はただ一つ。つまり、この横たわる男は、かつての魔導学の全盛期において最高位の魔導師であった、という証だ。

 そして、金色。
 夕暮れ時の茜さす空と同色に染まった大地の中にあって、黄金に波打つ麦穂を想起させる――そのような色。
 この魔導師がアリューザ・ガルドにいた時分は、その長い金髪が深紅のローブによってさらに際だって美しく映えていたことだろう。
 だが今や髪はくすみ、ほつれてしまっており、黄金色が本来持ちうる美しさを台無しにしてしまっている。加えてところどころに白髪が見え隠れしている。
 これらは彼の老いの兆しを示すものではない。彼や他の魔導師達が、魔導をこの地に封じるに至るまでの間に経験したであろう辛苦の数々を刻むものなのだ。

 魔法が全盛の時代だったというのに、それまで長年まで研究してきた魔導学の膨大な知識をすべて禁じてしまうことについて、時の権力階級層の人間達や、魔法貴族達からの反発はさぞや大きいものであっただろう。それまでの自分達が権力のよりどころにしていた“力”そのものを使えなくしてしまうというのだから。結果として当時の魔術師達の主張が受け入れられ、『魔導の公使は危険である』として魔導を行使するすべは封印された。
 これまでのミスティンキルとウィムリーフには、“陰謀”という名を持つ人間の暗い側面によってどれほどの無垢な血が流されていったか、どれほどの苦痛に耐え忍んだのか――人間の歴史が遺した傷というものに対しておよそ想像もつかなかったし思考すらもしなかった。でも、今は痛みの一片を切実に感じ取ることが出来る。この魔導師の白髪のほんの一房からすらも。

 褐色。
 それはユクツェルノイレの肌の色。
 ミスティンキルの日焼けした肌に比べると、若干明るい色をしているようだが、まるで死人の肌のような冷たさをも感じる。
 彼が金髪であることと併せて察するに、この大いなる魔導師は、バイラルの氏族の中でもラクーマットびとに属するのだろう。金髪と、青もしくは緑の瞳を持つ褐色人。ミスティンキルが西方大陸《エヴェルク》を旅していた時分、ファグディワイス王国の領土内でとくによく見かけた氏族だ。
 ファグディワイスは、ミスティンキルの故郷ラディキア群島と国家規模での交易が盛んである。たとえバイラル以外の種族、龍人《ドゥローム》であっても他のバイラルと同様に、旅先の人々は迎え入れてくれたのをミスティンキルは思い出す。当時、全ての物事に対して斜に構えていた自分でさえも受け入れてくれたのだ。

 ユクツェルノイレは、立方体の中で仰向けの姿勢を崩さず、微動だにせず横たわる。八百年弱という期間、彼はずっとそのままの姿勢で留まっていたのだ。
 無精ひげともいえる短いあごひげを蓄えた彼のかんばせからは、表情というものが消え去っており、まるで深い眠りに引き込まれて戻れなくなってしまったかのように、彼の両の目は固く閉じられている。
 魔導師の齢はバイラルにして三十半ば、といったところであろうか。短命なバイラル族の社会にあっては、世代の中心的存在となって人々の生活を支える、そんな年齢といえる。
 だがユクツェルノイレにとって、“社会”という認識、“時間”という概念は、もはやなんの意味をもなさないものなのだろう。おそらくは魔導が封印されてからこのかた、八百年弱もの長きに渡り、ユクツェルノイレは他の世界から完全に隔絶されていたのだから。魔力を制御するという重責をたったひとりで背負い込み、時折語りかけてくるのはイーツシュレウの声だけ。ユクツェルノイレひとりが存在する孤立した世界では、何事も移ろうことも、起こることもありえず……ただただ長大な歳月のみが緩慢に過ぎ去っていったのだ。
 八百年! なんと気の遠くなる歳月であろうか。

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作品名:赤のミスティンキル 作家名:大気杜弥