赤のミスティンキル
抽象的な世界の様相は瞬時に変貌を遂げる。それまでゆらゆらと緩慢にたちのぼるように揺れ動いていた炎の空間は、激しく立ち上る業火のイメージへとたちまち趣を変えた。
だが炎に包まれているというのにまったく熱さを感じない。そして一切の音はない。
絶えることなく揺れ動く炎と静寂とに支配された幻想的な空間。これが“炎の界《デ・イグ》”の本質であった。
炎の舞い上がるさまにあわせて<赤>自らも空間をふわふわと漂っているのが分かる。しかし、本来持ち得ていたはずの浅黒い手足が視覚できず、さらには体の重さの感覚すら感じ取れないというのは不自然きわまりない。だが<赤>はこの事態を当たり前のものとして認識した。ここは、アリューザ・ガルドとは異なった原理が支配している、と理解したのだ。
龍人ミスティンキルの意識は、純粋な赤を有する雲のような固まりとなっていた。赤い固まりは大きさにすると、人間の頭ほどにあたるのだろうか。だが内部にはたぎる力が凝縮されているのが感じ取れる。これこそが自身の持つ、まったき赤い魔力そのものなのだろう。
そして自分のすぐそばを飛び回っている青い球は、自身の恋人の意識体だ。留まることなく色を変える炎の中にあっても、なお鮮やかに見えるこの<青>もまた、<赤>と同等の大きさを持っている。そして快活な気性をあらわすかのように跳ねまわり、姿を真円にまた楕円にと頻繁に変貌させていた。先に意識を覚醒させていた<青>は、<赤>がようやく目覚めたのを喜ぶかのように<赤>の周囲を弾んでみせた。
二色の意識体は荒れ狂う炎の流れに任されるまま、しばらく空間を漂っていた。深淵から突き上げてくるような激しい業火はやがて収まり、ちろちろとくすぶるような炎へと移り変わった。同時に、天上の空間からは太陽を想起させる色を持った、赤白い炎が滝のように流れ落ちてくる。その大瀑布がもたらす眩さは“炎の界《デ・イグ》”全域を明るく照らし出した。すると今まで濁り淀んでいた周囲の空間が徐々に澄んでいき、はるか遠方の領域まで見渡せるようになった。
空間の至る所には、赤水晶《クィル・バラン》のように煌めく球体が浮かんでいた。その大きさはまちまちで、一軒の小屋程度のものから小高い丘を覆うほどに大きなものまで様々だ。それら球体は硬質な固体ではない。炎が凝縮して作り上げたものだ。
近くにあった球の一部分が内側から盛り上がると、なにやら白く細長いものが現れた。<赤>にとってそれは生まれて初めて目にするものだった。ドゥール・サウベレーンだ。
その白いドゥール・サウベレーンは、龍としては小柄なのだろう。すらりと細い体をしており、球から抜け出すとすぐさま巨大な翼を広げて飛び去っていった。
この球体は、“炎の界《デ・イグ》”に住む龍達の住居なのだ。よく見ると、炎の空間の中に何匹かの龍達が飛び交っているのが分かる。
だとすると、遙か向こうにひときわ大きく見える球体は――。
海に落ちるときの真っ赤な夕日を連想させる、あの巨大な球体こそが、世界の中心に位置するものであることを<赤>は悟った。また同時に炎の王イリリエンがいるという気配も。
次に<赤>は思った。“炎の界《デ・イグ》”で自分が受けるべき試練というのは、一体いつから始まるのだろうか、と。“炎の界《デ・イグ》”への行き方についてはエツェントゥー老から詳細を聞いていたのだったが、こと試練の内容については一切聞かされることがなかったのだ。
試練の事を<青>に語ろうかと思案したものの、静寂が包むこの世界で会話という行為そのものが成立するのか訝しかった。
その時。音なき声が届いた。
この声は空間を響かせて到達するものではなく、<赤>の意識下に直接語りかけてきたのだ。
【……アリューザ・ガルドの住人か。炎に焼かれることなくよくここまでたどり着いた。自身の姿を想起し念じればいい。そうすれば物質界本来の姿が映し出される】
声は龍《ドゥール・サウベレーン》の言葉で語りかけてきたが、周囲には何者も存在しない。この声は<青>にも届いていたらしく、今は鞠のように跳ねるのをやめ、動きをとどめている。ここは姿なき声に従うべきだろうと<赤>は考えた。
<赤>と<青>が念じると、二つの色は瞬時に人間の姿を象った。赤い装束をまとったドゥロームと青い衣装を着たアイバーフィンの姿へと。
◆◆◆◆
物質界と同様の姿で、ミスティンキルとウィムリーフは炎の中に立っていた。足下に地面と呼べるものはないが、確かに足場は存在しているようだった。
ミスティンキルは自分の手足を見た。それは見慣れた自分の体に他ならないが、やはり物体的な感覚を把握できないのはもどかしかった。手足を触ろうにも空気のようにすり抜けてしまう。
ウィムリーフの黒く染めてあげていたはずの髪の色は、きれいな銀髪に戻っていた。事象界にあっては、事物はその本質のみを映し出すのだろう。
そして彼女の背中にあるのは、二枚の優雅な翼。白い羽根が輝いて映える。アリューザ・ガルドでは目にすることがかなわなかった翼は今、明らかな「かたち」を伴って顕現している。こうして見ると、アイバーフィンが“翼の民”を名乗っているのもうなずける話だ、とミスティンキルは思った。“天界《アルグアント》”の御使いとは、おそらくこのような翼を持っているのではないか。そう思えるほどに、彼女の背中に生える純白の翼は神々しさを感じさせるものであった。
そしてウィムリーフは驚いたような顔でミスティンキルの背中を指さした。
ばさり。ここがアリューザ・ガルドであれば明らかにそのような音がしただろう。ミスティンキルは背中に異質感を感じて首を後ろに向けた。
そして彼は目を丸くする。
ミスティンキルの背中にあるものもまた、翼だった。彼が背中に生やす黒い翼は、アイバーフィンの白い羽根とは違い、猛き龍の翼である。試練をこれから受ける身だというのに、なぜ翼を有しているのかミスティンキルは分からなかった。ウィムリーフは生まれながらにして翼を有していたと言うが、ミスティンキルの出自はそうではないことを知っている。
【見事。赤きドゥローム、お前は試練を乗り越えたのだぞ】
今度は間近から、音を伴って声が聞こえた。その低い声は先ほど意識下に届いた声と同じものだった。
二人の目の前で炎の空間が揺らめき、とぐろを巻いて歪む。その中から何者かが出現しようとしている。ミスティンキルは一瞬、歪んだ空間の中に蒼い龍の巨躯を見たような気がした。
とぐろが消えて空間が元に戻ったとき、そこには一人の人物が佇んでいた。その“彼”の風貌を一目見て、ミスティンキル達は思わず身構えた。
ミスティンキルと同じような背丈を持つ“彼”は白い長衣を羽織り、帯を締めた腰の左右には一振りずつの太刀が収まっている。
しかしミスティンキルが警戒した理由は、“彼”が武器を持っているからではない。“彼”の容姿が、人間とは根本的に違っていたからだ。