赤のミスティンキル
みたび、山腹のとある一点から炎の柱が上がるのが見えた。ウィムリーフもそれに気づき、自分達を呼び寄せるように立ち上るそれに向かって、見えない翼を羽ばたかせるのだった。
炎に誘われるまま、彼らは空き地へと降り立つ。すると二本の石柱から炎がすうっと消え失せた。そのものが意志を持っているようなこの炎は、アリューザ・ガルドの産物ではないだろう。次元の狭間を通り越して“炎の界《デ・イグ》”から流れ込んできているに違いない。
「ありがとうよ、ウィム。重くなかったか?」
「重かったわよ! 大柄なあんたを運ぶのは骨が折れる仕事なんだからね」
そう言いつつウィムリーフは興味深そうに柱をまわり、冷たくなった石の肌をべたべたと触っている。夜の闇に覆われているために周囲の情景が把握できないが、空き地には二本の柱以外めぼしいものは何もないようだ。そしてこれこそが“炎の界《デ・イグ》”へと通じる扉に他ならない。
ミスティンキルは、ここで自分達が何をすべきなのか、分かっていた。エツェントゥーから聞いた言葉にしたがって、彼は二本の柱の中央に立つ。ウィムリーフも彼の横に並んだ。
「ウィム、覚悟はいいか? いよいよ行くぞ」
自分自身の声がやや震えているのが分かる。物質界であるアリューザ・ガルドとはまったく様相を異にする異次元に転移しようというのだ。恐怖、不安、期待。様々な感情が織り混ざる。
「……いいんだな? 帰ってこられないかもしれない」
「ミストの力をもってすれば、大丈夫。試練に打ち勝つことが出来る。あたしが保証するわ」
差し出されたウィムリーフの手を堅く握ると、いよいよミスティンキルは覚悟を固め、ことばを発した。
【デュレ ウンディエ ゾアル イリリエネキ】
それは龍の言葉。放たれる音そのものが魔力を持ち得るという、太古の言語だ。言葉を放つと同時に、柱の石の裂け目から炎が吹き出して石柱全体を赤々と包み込む。視界が歪に曲がり、アリューザ・ガルドの情景が徐々にうっすらと消し去られていく。
――我赴かん、イリリエンのみもとに――
柱の頂から炎が高々と立ち上ったその時、二人の姿はかき消えた。
(三)
まことを語るただひとつの歴史書には、このように記されている。
幾百万の昼夜をさかのぼってもまだ足りないほど太古のこと。
原初の世界には“色”という概念そのものがありえなかったという。
暗黒と、漠然とした白のただ二つのみが存在していた、と歴史は語り継ぐ。
殺伐とした原初の世界を統治し、幾千年に渡って栄華を誇っていたのは古神といわれる荒くれる神々達。だが彼らは始源の力、つまり強大な“混沌”の力の氾濫によって滅びの時を迎え、その後アリュゼル神族に取って代わられた。
アリュゼル神族は、もともとは古神達と時を同じくして原初世界に誕生したのだが、世界の果てへと飛び去ってしまった。諸次元の彷徨の果てにふたたびこの世界へ復帰したのだ。
そしてアリュゼル神族とともにこの世界へと流入してきたものこそが、“色”。
魔力そのものを内包する“原初の色”だ。世界の新たな構成物であるこれら原初の色は、いくつもの帯状となって空を包み込むと互いに絡み合い、無数の色を織り上げていく。やがて原初の色は万象事物へと染みこんでいった。それまで無機質だった世界は、無数の色をして美しく彩られるようになったのだ。
これがアリュゼル神族により創られる世界――アリューザ・ガルドのはじまりとなる。
“炎の界《デ・イグ》”が、物質界アリューザ・ガルドと繋がるようになったのは、アリュゼル神族によって世界創造が行われているさなかであった。
次元の隔壁を飛び越えてアリューザ・ガルドに顕現した最初の龍こそが、美しい深紅の巨躯を持つ龍王、イリリエンである。
アリューザ・ガルドに現れた龍王は、アリュゼルの神々にこう申し立てた。
【各次元へと繋がる門――“次元の扉”を解き放たれよ。さすれば事象界は地上と近しい存在となり、火が、水が、大地が、そして風が、この地にさらなる祝福と癒しをもたらすのだ】
イリリエンの言葉どおりにアリュゼル神族は次元の扉を開け放った。これによって火・水・土・風の事象界はアリューザ・ガルドと密接に繋がるようになった。“炎の界《デ・イグ》”の住人であった龍《ドゥール・サウベレーン》の多くも、物質界目指して飛び去っていった。
世界に関するすべての原理が整ったアリューザ・ガルドでは、アリュゼル神族が最後の創造を行った。人間の創造である。
水の加護を受け、森と共に生きるエシアルル、空を駆ける風を力とするアイバーフィン、大地に息づく力――龍脈を感じ取るセルアンディル(のちのバイラル)。彼ら三種族がアリュゼル神族によって創造された。だが火は――すでに龍達が司る事象であったために、火の加護を受ける人間は創造されなかった。
しかし意外なことに、孤高の存在であると思われた龍達の一部は人間に大きな関心を寄せ、また人間の生き方に憧れたのだという。彼らはおのの叡智を結集して人化のすべを形成し、人間となった。
炎の加護を受けるドゥローム族とは、人化したドゥール・サウベレーン達の末裔なのだ。
アリューザ・ガルドでは四種族によって人間の生活が営まれていくことになった。
それから歴史は数々の激動とともに幾星霜を重ね、現在に至ることになる。
◆◆◆◆
火という事象そのものの発祥の地であり、龍達の生まれ故郷である“炎の界《デ・イグ》”。
そこに今、新たな訪問者が流入してきた。ミスティンキルとウィムリーフ。彼らは見事に次元の壁を飛び越えて、“炎の界《デ・イグ》”への転移を果たしたのだった。
ゆらゆらと舞うようにして、二人は炎の中に佇んでいた。人の姿から、<赤>と<青>という色の固まりへと姿を変えて。
(四)
見えるもののすべては、陽炎のごとく揺らめく赤と橙。つまり火という事象。
深淵の縁から先の見えない天上に至るまで、この広大な空間はひとつの大きな炎によって占められていた。まさしく“炎の界”である。
物質界に生まれた者が“炎の界《デ・イグ》”を見たとき、それまでの自身の常識に照らし合わせて、こう考えるかもしれない。
この奇妙きわまりない世界には大地が存在するのか? はたまた空間の果てが存在するのか? と。
距離の概念というものは、この世界においては重要な要素ではないのだが、それを理解するに至る人間はほぼ皆無だろう。だが事象界へ入ろうとする者は、理解の範疇を越えるさまざまな出来事を、この世界の理《ことわり》として受け入れなければならない。
「あり得ないことだ」という拒否の意志をあらわにした時、事象界はその意識を拒絶する。拒絶に陥った人間の意識は、運が良ければ事象界からはじかれて物質界へと送還されるだろう。が、運が悪ければ物質界へ帰還できずに、意識の尽きるまで次元の狭間を漂うか、そうでなければ意識そのものを事象界に融かされてしまうだろう。その行き着くところは、死。
では、今この世界に現れた二つの意識はどうだろうか?