赤のミスティンキル
「そう、あたしは『恵まれている』と言ったわ。エンクィも言ったように、魔力っていうのは行使する人次第で良くも悪くもなるものだからさ。ミストもそう落ち込まないで! あんたの力はけして忌々しいものなんかじゃない。炎の司ミスティンキルという人を、世の中の人が知るのはこれからなんだから。……だから、きっちりと試練を乗り越えるのよ!」
ウィムリーフはばんと、ミスティンキルの背中を叩いて励ますのだった。ミスティンキルは心の中で礼を言った。
“力を行使する者の気の持ちようがすべてなのだ。だからこそ、心せよ。自分を強く保て”
そして、風の王エンクィが語ったとされるこの言葉は、後々までミスティンキルの記憶に刻み込まれたのだ。
ごうっと音を立て、一陣の風が強く吹き付ける。
「……風が出てきたな」
「さっきからそうだったんだけど、この周囲の風の力が、もとに戻っているみたい。なぜなのかは分からないけれどね。これだけ風の力に恵まれていたら、あたしも今だったら飛んでいけそうよ。……ほら」
ウィムリーフはそう言って軽く地面を蹴る。と、彼女の体はふわりと宙に浮かんだ。
「見て! 今だったらいつもと同じように飛べるよ」
ウィムリーフがいかにも嬉しそうに、くるりと宙返りをしてみせると、翼をきらめかせて空高くまで飛び上がってみせる。ミスティンキルは小さく笑みを浮かべ、彼女が空を舞う様子を見ていた。
その時。
なんかしらの感覚が、心の奥底をざわりと触れた。ふと勘が働いたミスティンキルが、視点をデュンサアル山の中腹へと移すと、二本の赤い炎が、蛇の舌のようにちろちろと揺れ動くのを見た。あのあたりに“炎の界《デ・イグ》”に至る門があるに違いない。
“炎の界《デ・イグ》”が自分達を招いているのだ。あるいは、龍王その人が呼んでいるのか? ――ミスティンキルの研ぎ澄まされた感覚はそのように訴えかけている。
だとしたら一刻も早く、扉のあるところまでたどり着かねばならないだろう。
「さてウィム、降りてこいよ。行こうぜ! どうやらおれたちが今夜デュンサアル山に向かうことは、間違ってなかったようだからな」
こうして二人は再び山路を歩き始めた。
◆◆◆◆
風に乗って届いてくる狼の遠吠えと、木々のざわめきとを耳にしつつ、岩山の頂上をしばらく歩くと道は途切れ、巡礼者の行く手は阻まれる。山を割くような断崖があるのだ。だがこれは先刻、“司の長”エツェントゥーから聞いたとおりである。
断崖を越えるには細長く頼りない吊り橋を渡るほかないのだが、その吊り橋の横には一件の山小屋があった。デュンサアルへの巡礼者のための休息所として建てられたのだろう。もしくは、聖なる山を守護する守人《もりびと》の詰め所をも兼ねているのだろう。
灯りのともった山小屋を横目に見ながらも、ためらうことなく二人が吊り橋に向かおうとしたその時、山小屋の扉が開き、小屋の中から一人のドゥロームが現れた。
〔止まれ!〕
槍を片手にした守人のドゥロームがあからさまに警戒をしながら駆け寄ってくる。ミスティンキルほどではないが、背の高いこの若者は――もっともドゥロームとしては平均的な身長だが――二人のすぐそばまでやって来ると、怪訝そうにミスティンキル達の様相を伺う。
龍人の正装である赤い長衣をまとった男。それに、瑠璃色の短衣と白くゆったりとしたズボンを着た女。ふわりと宙に浮く魔法の光球。
この守人に自分達はどのような印象で受け止められているだろうか。怪しい者だと思われても仕方がない。加えて、ウィムリーフの衣装はアイバーフィンの正装なのだ。これでは銀髪を染めた意味がない。だが、種族の正装でなければ、事象界に入ることが出来ず跳ね返されてしまうこともままあるのだ。
“デュンサアルに住むドゥロームは、アイバーフィンを快く思っていない。”
ともに旅をした旅商から聞き知った言葉だ。その言葉どおり、デュンサアルには偏狭な龍人が多いことをミスティンキルは身をもって知った。海洋地域出身のミスティンキルすらまともに取り合ってくれないのだから、太古に敵対していたアイバーフィンに対する扱いはいかなものになるというのだろうか。
(へんなことで咎められるのはごめんだ)
ミスティンキルは内心不安を感じながらも、感情をあらわにすることなく守人と対峙した。そして眉をひそめた。この若者のがっしりとした体格と、厳めしい顔つきには見覚えがある。憤りを覚えるほどにあの龍人に似ている。自分を侮辱したあのマイゼークとかいう長の若い頃は、このような容姿であっただろうと思わせる。
〔ふん……魔法使いか? けったいな術を使うなど……〕
ふわふわと浮いている光を訝しげに見ながら若者は問いかけてきた。彼の若い声色は、マイゼークのような低い声ではなかったが、気分を害する口調はあの老人譲りである。
〔よそ者が、聖なる山になんの用あって赴こうとするのか? しかもすでに深夜――“刻なき時”に入っているというのに〕
「けして怪しい者じゃない。おれは――海の向こうのラディキアから来た、ミスティンキル・グレスヴェンドというんだ。“炎の司”になる試練を受けるためにデ・イグに行こうとしている。“炎の界《デ・イグ》”への門はいつでも開かれている、と“司の長”エツェントゥーどのから聞いたから、今こうしてやって来たんだ。……あんたは長からなにも聞いていないのか?」
ドゥローム語を話す若者に対して、ミスティンキルはアズニール語で返答した。自分まで龍人の言葉でやりとりを行ったら、言葉を解さないウィムリーフにはあたかも密談のように聞こえてしまうだろうから。
くっくっと、含み笑いをしたあと若者は言った。
〔知ってるとも。君の話は聞いている、遠方の海辺からわざわざお越しなすった同胞どのよ。私はマイゼーク・シェズウニグの長子ジェオーレという。……しかしこんな夜更けにこそこそ闇に紛れて――まるで魔の眷族のように――やって来るとは、父の読みどおりだったよ。しかしながらこれは予想できなかったな……同行者がいたとはな〕
守人ジェオーレの表情は笑ってはいない。また、彼の口から出る言葉は言葉遣いこそ柔らかではあるが、きわめて辛辣なものであった。デュンサアルに住む者以外は信用ならない、そんな様子が言葉の端々から伺いとれる。
ジェオーレの鋭い目つきがぎろりとウィムリーフを凝視する。服装からアイバーフィンであるということがばれたのだろうかと、ウィムリーフは心配そうにミスティンキルを見た。
「……バイラルの女か。デュンサアル山になんのようだ」
ジェオーレは、ややたどたどしいアズニール語で話しかけてきた。
「ウィムリーフと言います。あたしも、このミスティンキルと一緒に“炎の界《デ・イグ》”に行くんです。……龍王様に会いたい一心で、ここまでやって来たんですよ」
気を取り直した彼女は臆することなく、持ち前の快活さで答えた。
「ふん。ドゥロームであっても会うことが叶わないお方だぞ。ましてバイラルなど……我らの“炎の界《デ・イグ》”に入ること自体がとうてい無理だ。たどり着いたところで、業火に身を焦がされて、魂すらも消し炭になるぞ」