赤のミスティンキル
耐え難い視線を一身に受けていた時間はいかほどのものだったのだろうか。彼らはくるりと身を返し、漠然とした白色の中へと消えていった。最後までその表情を変えぬまま。
ようやく呪縛から放たれたミスティンキルは天を仰いだ。はち切れそうなまでに膨らんだ感情の中にあってなお強く感じとれたのは、あまりに深い悲しさだった。漁師の次期首領としての後継者争いが始まり、“力”を持つがゆえに一族から疎んじられ――ミスティンキルが孤独を覚えるようになってからずっと、誰に知られることなく密かに抱え込んでいた感情。
そして彼の意識が現実へ戻ろうとしているのが分かる。それは嬉しいことだった。いつもと変わらずに振る舞えば、この夢のように辛い感情を吐露することもない。なにより、ウィムリーフが自分を包み込んでくれるのだ。
最後に、ミスティンキルは思った。
自分の力の強大さゆえに迫害され続けてきたのなら――
「なんでこんな力を、大きな魔力なんかを……おれは持ってなきゃならねえんだよ?」
それはミスティンキル、運命という名の必然が待っているから。
歴史という名の物語の流れへと飛び込んでいくから。
その時が、いよいよ始まる。
意識が覚めていく中で最後に聞こえたのは、覚えのない声。それはいったい誰の言葉だったのだろう――。
(二)
さわさわと、木々の葉擦れの音がさやいでいる。
ミスティンキルは仰向けに寝転がって漆黒の宙と星々の瞬きとを凝視していた。そしてようやく、自分が悪夢から目覚めていたのを知った。天高く昇っている白銀の月は、今宵ほぼ完全な円を象っている。月は常にかたちを変えるもの。二十八日すなわち一ヶ月という周期をもって、月は満ち欠けを繰り返すのだ。おそらく明晩は満月となることだろう。白銀がくすんで見えるとはいえ、その独特の神秘性にミスティンキルは魅了されるのだった。
やがて、こぅん、という鐘の音が耳に届いてくる。風に乗って麓から運ばれてきたのだろう。一日の終わり、闇の時間のはじまりを告げるその鐘は六回鳴らされる。次の鐘が鳴るのは朝を告げるとき。それまでの間は“刻なき時”と呼ばれており、闇が支配するこの時間、人々は眠りに落ちるのだ。
天上を見上げていたミスティンキルの視界は唐突に遮ぎられた。不意をつかれ、何事かと思ったミスティンキルは、思わずびくりと身を震わせた。だがそれは見慣れたものだった。ウィムリーフがミスティンキルの顔をのぞき込んだのだ。ウィムリーフの膝を枕代わりにして寝入ったのを思いだし、ミスティンキルは安堵の息をついた。一方、ウィムリーフは一言ことばを唱えて再び光球をともらせる。魔法の光は彼らの頭上へと浮かび上がるとほのかな光を発し始め、やがて周囲を明るく照らしだした。
「どうやら起きたみたいね。疲れは少しはとれた?」
鼻先、すぐ真上からのウィムリーフの問いかけに、ミスティンキルは首を縦に振った。疲弊していた体力は回復し、感覚も冴え渡っているのが分かる。
「ぐっすりと一刻ほど眠りこんでたわよ。それで、こっちのほうは、ふくろうが二羽飛んでいったのを見た他は、とくだん何も起きなかったわ。……どう、もう少しこのままにしている?」
ウィムリーフの慈しむような眼差しがミスティンキルを捉えている。
目が覚めてしまったからには、いつまでも彼女の膝の上に頭をのせていても仕方ないだろう、とミスティンキルは思いながらも、ついついウィムリーフの視線に見入ってしまうのだった。彼女の群青の瞳はいつにもまして澄んでおり、それ自体が光を放つようにも見える。
奇麗だ、と彼は素直に感じ入っていた。彼女の青い瞳は優しく微笑みかけてくる。
「……奇麗だね、赤い瞳が。まるで赤水晶《クィル・バラン》みたい」
ウィムリーフの意外な言葉であった。忌まわしい力を象徴するかのような、この赤い瞳を誉められたことなど、未だかつてないのだから。
(赤い瞳。赤い……力、か)
ミスティンキルは、今し方見ていた夢を反芻するように目を閉じた。夢の輪郭は既に失われ、すべてを思い出すことは出来ないが、それが痛切なまでに辛いものであったことだけは覚えている。心の奥底に密かにしまい込んでいた感情を、思わず吐露してしまうほどに。
「なあウィム……。おれ、寝てるとき何か言っていたか?」
あれほど心に突き刺さる夢だ。もしかしたら、寝言を言っていたのかもしれない。おそるおそるミスティンキルは訊いてみた。
ウィムリーフはかぶりを振った。
「寝言は言ってなかった。でも、ミストが夢を見ていたとしたら……なにか悲しそうだった。それは伝わってきたわよ」
感情の波動が伝わってしまうのは、ミスティンキルのみならずウィムリーフ自身も、大きな力をその身に秘めているためだろう。それが都合のよいときもあれば悪いときもある。今は、どちらだろうか。
ミスティンキルは上半身を起こすと、膝を抱えて空を見上げた。
「そうだ、おれは夢を見ていた。あまり思い出せないけれども、どうにも辛い夢を。……おれの持ってる力は、どうあがいても忌々しいものなのかもしれないな」
口をついて出た言葉は、普段らしからぬ弱音だった。今は――自分の弱さを彼女には知って欲しかったのだ。彼女と出会ってから今までの間にも、過去の自分の境遇を話したことはあったが、こうして感情を吐露することで自身のもろさをさらけ出したのは、ミスティンキルの記憶している限りでは、はじめてだった。
ウィムリーフは即座に否定をした。
「忌まわしいというのとは違うんじゃないかな? あたしだってミストと同様に大きな力を持っているんだから、あんたが自分の力を怖がる気持ちは分かるつもり。……そう、こんなことがあったわ」
彼女もまたミスティンキルと同様に天上を仰いだ。何か思い出そうとしているようだ。そしてようやく、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
“――人間が、おのが持つ力を行使しようとしたとき、よきにせよ悪しきにせよ結果がもたらされる。たとえ悪しき事象が及ぼされたとしても、力そのものが悪なのではない。力を行使する者の気の持ちようがすべてなのだ。しかしだからこそ、心せよ。自分を強く保て――”
「これは、“風の界《ラル》”の王エンクィが言った言葉よ。あたしが“風の界《ラル》”に赴いたことがあったってことは前にも話したと思うけど、そのとき風の王に会ったの。エンクィに言わせると、あたしには純粋な青い色が――大いなる力が宿っているんだって。……それでもたぶん、ミストの力にはかなわないだろうけれども、アイバーフィンとしては珍しいほど、魔力に恵まれているんだって。だからあたしは生まれながらにして翼を持っていたりしたらしいのね」
ウィムリーフは、ただ慰めているのではない。彼女なりに真実を語っているのだ。“風の界《ラル》”の王エンクィは、ディトゥア神族の一人である。一介の人間が、神に対面できることはまずあり得ない。彼女が秘めた力の大きさが推し量れるというものだ。
「魔力に、恵まれているだと?」
ミスティンキルは起きあがると、ウィムリーフの言葉を反復した。