赤のミスティンキル
山道を登っている最中、何度もミスティンキルは思ったものだ。空を舞う翼さえあれば、このような苦労をせずに済んだのだから。かつて海と共に暮らし、鍛え抜いた体を持っているミスティンキルではあるが、昨晩の護衛のために一睡もしていないこともあって、今や疲労の極致にあった。ウィムリーフの言葉どおり今夜一晩は旅籠でゆっくり休めば良かったのだ、と心の声は囁くが、ミスティンキル本人は依怙地に否定した。
息を切らせながら、やっとのことで山道を登りきったその時、鐘の音が山の麓から春の風に乗るようにして聞こえてきた。
ミスティンキルが泊まっている地域で打ち鳴らされているそれは、一刻ごとに時を告げる鐘である。ミスティンキルと商人達がデュンサアルに到着した時分にも折しも、鐘が鳴っていたことから察すると、この山道を一刻ちかくに渡って登り続けたことになるのだろう。
流れる汗のために顔にまとわりつく黒い髪が疎ましい。ミスティンキルは汗を拭いながら、自分が歩いてきた道を振り返った。ちょうど見下ろした位置には、自分達が滞在する集落の屋根が見えていた。そして家々からそう離れていない広場に見えるのが灰色にくすむ天幕。その周囲で動き回る小さな影は、商人達であろう。
天幕が貝殻ほどに小さく見える場所まで、また引き返さなければならないのかと思うと、気が滅入りそうになるが、あえて忘れおくことにした。
「翼を持つ長の連中にとっちゃあ、こんな山の上に住んでても何の不便もねえってことかよ!」
悪態をついても何にもならないが、もとから気に入らない長達のことがさらに憎たらしく思えるようになっていた。
(海のドゥロームなんてドゥロームじゃねえだと? アイバーフィンが嫌い? ……はん! 高いところから人を見下ろして、偉そうに暮らしてる奴らなら、そうも思うだろうよ!)
面倒なことはすぐに済ますに限る。早く長達に会って、そして早くウィムのもとに帰ろう。
そう思い、ミスティンキルは息を整えると、目の前に立ち並ぶ建物の中でもひときわ大きく目立つ館――“集いの館”へと向かっていった。
(注釈:一刻は約一時間半に相当。一日は十六の刻に分割される)
◆◆◆◆
そして、再び鐘の音が流れる。
館の柱の一つに背を預けて座り込んでいるうちに、さらに一刻が過ぎたことをミスティンキルは知らされた。弱々しく光を放つ太陽は、既に西へと傾きはじめ、屹立する山々に夕刻を告げようとしている。
今のミスティンキルは、不愉快と焦燥感の固まりと化していた。なにせ長達のいる“集いの館”に着いたはいいが、館を前にして聞く鐘はこれで二回目なのだから。
彼は待ちぼうけを食らっていた。
ミスティンキルは舌打ちをして、右横にある扉を恨めしそうに見上げる。石造りの立派な扉には、炎を象った大層な意匠が施されてある。しかしながら扉は今も固く閉ざされ、向こう側から人が現れる気配は全く感じられない。あとどれほど待てばいいというのだろうか?
ミスティンキルが最初に扉を叩いたとき、館の中から顔を覗かせた男が「ちょっと待ってくれ」と言ってから、まるまる一刻もの時間が過ぎてしまったのだ。
彼は腕を大きく上にあげて伸びをしたあと、疲れと眠さのあまりくっつきそうになる瞼をごしごしとこすり、そして再び背を壁に預けて座り込む。腹立ち紛れに目の前の地面を叩いたところで、けっきょく彼の憤りは収まるはずもない。
元来ミスティンキルは、けして気の長い性分ではなかったものの、待つことに関しては辛抱強く耐えられた。それは彼がまだ漁師のせがれとして暮らしていたとき、自然と身に染みついたものである。ラディキア沖で魚の群がやってくるまで二刻も三刻も待つことはざらだったからだ。
しかし今、彼は苛立っていた。長達は「会議中である」として、いっこうに姿を現そうとしない。いい加減にしびれを切らしたミスティンキルは立ち上がると、“集いの館”の周りを大股で闊歩した。
この館はバイラルの国々に見られるような、宮殿の華麗さや城塞の威圧感は持ち合わせていない。ほんのごく小さな地方の領主が住まうであろう程度の造りである。それでも、デュンサアルにある建造物の中にあっては豪奢といえた。それはデュンサアルに住むドゥローム達がおしなべて質素かつ堅実な生活を送っているからに他ならない。
ミスティンキルはぐるりと一周を回ってみたものの、館の窓はいずれもカーテンがきっちり降ろされており、中の様子を伺い知ることはできなかった。
会議の内容は間違いなく“褪せた色”の件についてであろう。宿の女主人に聞いていたところでは、「長様《おささま》たちの館では、かれこれ三日三晩も話し合いが続いている」という。しかし彼らはなんと長いこと話し合えば気が済むというのだろう。ラディキアの漁師達も寄り合いをすることがあるが、長くても一刻以上はかからない。最後には決断権を持っている漁師の長の一声で決まるのだから。
(いまの事態が普通じゃねえってのは、おれにも想像がつくが。しかし、だらだらと話し合ったところで、答えなんか出るのかよ?)
いくらなんでも休憩なしに会議を続行するわけはないだろう。
ミスティンキルはそう思い、一刻前に取り次いでもらった龍人と話すために、扉を強めに叩いた。
ややあって、中からくぐもった声が聞こえてきた。
〔誰だ?〕
その言葉は、いまの世では滅多に使われなくなったドゥローム語。そしてこの声は、一刻前に言葉を交わしたドゥロームのものだ。
〔さっきの者……ミスティンキルです。あの、だいぶ前から待ってんだけど、会議が終わるのは、まだとうぶん時間がかかるんですかねえ?〕
言葉を荒げながらミスティンキルは扉の向こう側に言った。
しばしの沈黙のあと、扉がぎいっと音を立てて内側に開いた。扉から顔をのぞかせた者は青年のようであり、ミスティンキルよりやや年上である程度のようにもみえるが、その物腰から実際のところは相応の年を重ねたドゥロームであることが伺い知れる。彼はミスティンキルの頭からつま先までをじろじろと眺めた。長時間にわたる会議のためか、彼のやや虚ろとなった眼差しからは焦燥感が感じられた。
〔入れ。今ようやく俺達も休憩に入ったところだ。……お前の用向きは……何だ?〕
〔“炎の界《デ・イグ》”に行って試練を受けたいのです〕
〔ならばついてくるがいい。俺はファンダークと言い、“司の長”の一人だ。お前を長たちに引き合わせよう。『“炎の界《デ・イグ》”へ向かう者は炎を尊び、炎を司る者を尊べ。さすれば龍王の加護あらん』と、我らドゥロームの言うからには、な〕
ミスティンキルは、その男に先導されて薄暗い玄関へと入っていった。
(長さまだか何だか知らんが、えらそうな口調をきくやつだ。だいたいおれの用件なんざ、一刻前もおんなじことを言ったじゃねえか。二度も言わせるなよ)
と内心苛立ちながら。
◆◆◆◆
会議室の扉が重々しい音を立てて両側に開けられた。