目が覚めると小学五年生だった。
しかし俺は、沖田真理の顔を見た瞬間に、尾崎絵美は来ない、と確信していた。
なぜそんなことをしたのかは分からないが、尾崎絵美は俺と沖田真理を二人きりにするために同じ場所に呼び出したのだ。
理由は俺にある。俺の中にある。
だって、少し嬉しかった。
「江口くんてさ」
沖田真理は、ここ座りなよ、と言わんばかりに自分のすぐ隣を指先で二回叩いた。
「最近、急に変わったよね」
「そう?」
「うん。大人になったっていうか、余裕があるっていうか」
「俺自身は自覚ないけどな」
「あと、それも」
「どれ?」
「“俺”」
「あ……」
二十年後の、三十一歳の俺が繋がりを持っているのは、沖田真理だけだ。過去の世界とはいえ、沖田真理の存在は大きかった。
無意識に気を緩めてしまっていたのだろう。
知らぬうちに、縋ってしまっていたのだろう。
尾崎絵美は、俺の中にあるそんな感情を見抜いていたのかもしれない。
「絵美ちゃん遅いね」
言葉を失った俺を見て、沖田真理は話題を切り替えた。
もとから答えなんか求めていなかったのかもしれない。けれど、切り替えた先の話題はもっと辛い。
明確な答えを持っていて、しかも俺自身はそれを認めたくない。
尾崎恵美は来ない。先に行くねと席を離れたのは、今から十分以上前のこと。
確信は事実へと変わっていた。
「来ない……よ」
「やっぱ……そっか」
そして俺は、覚悟を決めた。
向き合うときが来たのだ、と。
沖田真理とは、一年生のときからずっと同じクラスで、五十音順に並ぶ出席番号の関係で、学年最初の席順や何かの行事で整列する際には、大抵すぐ近くにいた。
いじめの二歩手前のような仕打ちを受ける俺を、いつも守ってくれた。
男だからとか、女だからとか、そういったことに関心を覚えていなかったけれど、このままでは駄目だということは分かっていた。守られてばかりでは駄目なんだと。
同じクラスが続いて、進級する度に出席番号の関係で席が近くになったから、いつのまにか仲良くなった。
その“いつのまにか”が加速した日のことは、しっかり覚えている。
いつものように掃除をサボる男子を注意して、口論にまで発展した。注意された男子が、あろうことか箒を振り上げて、彼女を殴ろうとしたんだ。
そこに割って入った俺は、振り下ろされた箒の直撃を頭に受けて。
傷は浅かったけれど、派手に出血してしまって。
大量の血に心底震えたけれど、「大丈夫、なんともない」って強がってみせて。
分かっている。
咄嗟に割って入ることができたのは、ずっと見ていたからなんだって。
沖田真理は、俺の憧れだった。
異性に対して特別な感情を抱くには、まだ幼すぎた。
だから、恋じゃない。
この胸にある想いは、恋じゃない。
「俺さ?」
「なぁに?」
「真理ちゃんに守ってもらってばっかりだっただろ?」
「そうかなぁ」
沖田真理の視線が、一瞬だけ俺の生え際にある傷痕へと向けられる。
その視線には気付かない振りをした。決心が揺らいでしまいそうだったから。
「これはね、強がりなんだよ」
決心が揺らいでしまわないように、嘘で塗り固めて。
額の生え際に残る傷痕は、何の思い入れもない、ただの傷痕でしかないんだ。そう言い聞かせて、傷痕の存在を塗り潰した。
「昨日さ、江口くんは沖田さんと仲がいいよねって言われたんだ」
沖田真理が言葉を失い、今度は俺が話題を変えた。
けれど、変えたのは表層だけで、変わったように見えるだけ。大きな流れはもう止められない。たとえ、今この瞬間に尾崎絵美が姿を現したとしても。
「何でもないのよって私から言っておくよ」
尾崎絵美のその発言が、誤解による嫉妬からのものと考えたのだろう。
困ったように、少し気恥ずかしそうに笑う。二十年後の沖田真理も、そんな風に笑っていた。
三十一歳の俺は、その笑顔に癒されていたよ。
「誤解じゃないんだ」
「……え?」
「俺は、真理ちゃんに憧れてた。女の子に言うことじゃないけど、真理ちゃんみたいに強くなりたい、強くなるんだって思ってた。その憧れの気持ちを感じ取ったんだと思う」
「江口くん」
「感じ取られてしまったからには、憧れたままではいられない。もう守ってもらうわけにはいかない。俺は、自分の手で守りたい人がいるから」
「やめ…て」
「だからこれは、俺なりのけじめ。真理ちゃんからもらった、強さの証」
沖田真理の目は、もう俺を見ていない。
俺の心は、もう沖田真理を向いていない。
あまりにも突然で、あまりにも一方的な宣告。
この薄い雲が掛かった青白い冬の空を、二十年後も思い出すだろう。
「私…ふられちゃったね」
答えることができなかった。肯定も、否定も、曖昧な相槌さえも。
「江口くんだけのせいじゃないよ。……あーあ、十年後とか、二十年とかにさ、ばったり再会して、実はあのとき――って言ってやろうと思ってたのにな。江口くんって、意外とひどい男よね」
「俺自身は自覚ないけどな」
小学五年生に“テンドン”が通用するかどうかは分からないが、オチとしてはそれなりだろう。
「寒い、ね」
真っ直ぐに伸ばされたその手は、真っ直ぐに伸ばされているからこそ、手を取って温めることはできない。
他人の目を忍んで、自分たちの目さえも欺いて、そっと手を繋ぐことができていた秘密のポケットはもうなくなってしまった。
俺は手を引き抜いてしまった。沖田真理とは別の出口から。
「寒いね」
神というものが存在するのなら、運命というものが願いを聞き入れてくれるのなら、切に願う。沖田真理と再会する未来だけは、どうかどうか変えないで欲しいと。
十一月二十一日。
土曜日。
寒い日だった。
とても痛い、寂しい日だった。
作品名:目が覚めると小学五年生だった。 作家名:村崎右近