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目が覚めると小学五年生だった。

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 十一月二十二日。
 日曜日。
 午前八時五十分。
 鶏小屋の鍵を借りるために事務室を訪ねるも、なぜか無人で。
 部屋の照明は点されていたから、トイレにでも行っているのかな、なんて考えたその矢先に。
「おはよ、江口くん」
 鶏の世話を手伝ってもらう約束はしていたけれど、来ないものだとばかり思っていた。
「あぁ、丁度良かった。お友達が鍵を借りに来たところだよ」
 事務員の声は耳に入らなかった。事務員の姿は目に映らなかった。
 尾崎絵美の声が、鶏小屋の鍵を握り締めてはにかむ尾崎絵美の表情が、聴覚と視覚とを一瞬にして占拠したから。
「ありがとうございました」
「寒いから気をつけて。がんばって」
「はい!」
 内気で弱気というイメージを覆す、明朗快活な尾崎絵美。
 光を浴びて輝きだした宝石に、俺は目を奪われて。
「行こう、江口くん」
 言葉を失い立ち尽くす俺の腕を取り、尾崎絵美はずんずんと歩を進めた。
 振り払うのは簡単だった。歩速を上げて追い抜くこともできた。けれど、鶏小屋の前まで腕を引かれたままだったから、きっと達成不可能なことだったのだろう。何より俺は、目の前を歩く尾崎絵美との距離を噛み締めていたかったから。
 鶏小屋の前。差し出された鍵を受け取り、作業を始める。
 少し離れた場所にある用具箱から必要な道具を運び出し、水を変え、飼料を与え、糞を掻き出し、卵を産んでいないか調べる。
 尾崎絵美には、細心の注意を払って指示を出した。勿論、お願いという形でだ。
 水に濡れてしまわぬよう、飼料の臭いがうつってしまわぬよう、糞で汚れてしまわぬよう、前もって考えていた内容だ。
 一つ予想外だったのは、尾崎絵美の作業速度が想定よりもずっと速かったことだ。
 それでも鶏自体に近づくのはさすがに怖いらしく、一番大きな雄鶏にだけは決して近寄らなかった。
「鶏、怖い?」
「ちょっと…怖いかな。江口くんは怖くないの?」
「怖くて当然だよ。鶏と言っても獣だからね、何をされるか分からない。でもね、鶏も人間が怖いんだ。何をされるか分からないからね」
「そうなんだ」
「うん。だからね、意思表示をするんだ。水をいれるよ、餌を用意するよ、糞を掻きださせてねって」
「今日もいろいろ言いながらやってたね」
「独り言を言いながらやるなよって笑う奴もいるけどね」
 俺に言わせれば、めんどくさいオーラ全開でやってんじゃねぇよ、って話だ。
「江口くんは、鶏とおしゃべりしながらお世話をしていたんだね」
「残念ながら一方通行だけどね」
「そっか……ひとりじゃなかったんだ」
「うん?」
「なんでもない。ね、次は何をすればいいの?」
 飼育委員としての仕事は、もう終わっていた。
「終わりだよ。使った道具を用具箱に戻して、鍵を返しておしまいです」
 普段は数回に分けて運んでいた道具を、一度に全部抱えて、逃げるように尾崎絵美に背中を向ける。
「もうおしまいなの?」
 尾崎絵美の雰囲気が変わる。
「うん。手伝ってくれてありがとう」
 それには気付かない振りをして、何でもない友達として、感謝の言葉を告げた。
 けれど尾崎絵美は、そんな俺を許してはくれなかった。
「何も言わないんだね、昨日のこと」
 その声は悲しみを強く主張し、訴えていた。
「私、行かなかったんだよ? 自分から呼び出したのに、行かなかったんだよ?」
「二十分ぐらいは待ってた。それでも来ないから、何か急な用ができたのかなって。心配はしてたよ? でも、今日こうして手伝いに来てくれたからさ、階段から転げ落ちて怪我したとか、熱出して倒れたとかじゃなかったって分かって安心したんだ」
「それだけ?」
「うーん……寒いし、一人でやることないしで、何でこないんだよって思った」
「え…ひとり?」
 屋上には誰もいなかった。二十分待って帰った。
 尾崎絵美にはそう話すと決めていた。沖田真理も同じ考えだった。
 沖田真理は、約束していたことを忘れて家に帰ってしまい、後ほど思い出して慌てて戻ったものの、そこには誰もいなかった。朝一番の学校で、約束を忘れて帰ってしまったことを謝る。
 俺は、無人の屋上で二十分を寒さに震えて過ごし、待ちぼうけを食わされた不快を抱いて帰宅した。俺の目の前で沖田真理が尾崎絵美に謝る。そうして、真理ちゃんとの約束が終わってからのつもりだったんだね、と笑って許す。
 沖田真理がそうしたいと言い出して、俺は断固反対した。すべての責任が沖田真理に行くことになってしまうから。
 けれど、沖田真理は頑として折れなかった。これぐらいやらせて、と懇願してくる沖田真理の目には勝てなかった。
 それでも、考えを変えさせることはできたと思う。方法は幾らでもあったと思う。
 また沖田真理に守られてしまったけれど、踏ん切りをつけるための最後の一回とすることにした。
 これは、俺と沖田真理の双方のためだと何度も言い聞かせて。尾崎絵美にしても、失敗した企みをわざわざ白状したりはしないだろうと何度も言い聞かせて。
 ……なのに尾崎絵美は。
「失敗しちゃったなぁ」
 正直に話し始めてしまった。
「土曜はね、真理ちゃんを呼んであったの。二人きりにしようと思って」
 尾崎絵美は、相槌さえも打たせてくれなかった。
「江口くんさ、急に変わったよね。それで、きっと何かあったんだろうなって思ってたらさ、真理ちゃんがね、すごく寂しそうな目で江口くんを見てたの」
 それは俺が“手の掛かる弟”ではなくなったから。
「気付いてなくても仕方ないけど、何かおしゃべりしたあと、離れていく江口くんを、真理ちゃんずっと目で追ってるんだよ」
 何を言うべきか、考えても考えても言葉が出てこない。
「仲が良さそうに見えるけど、壁があるって言うか、どこかよそよそしいの。真理ちゃんは、それが寂しいんだよ」
「どうしてそんなこと分かる?」
 “どうして?”と問わせる誘導尋問なのは分かっていた。けれど、抗いきれなかった。
「分かるよ、女の子だもん」
 理由にならぬ理由は、否定も反論も許しはしない。
「だからね、二人がケンカしちゃったんじゃないかって、二人きりで会えば仲直りしてくれるんじゃないかって」
 湧き上がるのは罪悪感。
 本当のことを、沖田真理と口裏を合わせたことを、正直に話せば、話したならば、尾崎絵美は受け入れてくれるだろう。沖田真理も許してくれるだろう。
 本当のことを、俺が好きなのは尾崎絵美だということを、今ここで言えたなら、言ってしまえたなら、何もかもが、本当に何もかもが解決しただろう。それが望んだ形でなかったとしても、解決してしまっただろう。
 いつでも思考の隅にある。
 年が明けたら、尾崎絵美はもういないんだって。
 好きだと言ってしまえば、返ってきた答えがどちらであったとしても、俺自身が望む未来には続かない。
 進まないから始まらない。だから、終わりもない。
 そんな恋にしようと思っていたのに。
 三十一歳にして卑怯者の俺は、今もまだ最後の一歩から逃げ続けている。
「聞いて、江口くん」
 尾崎絵美は、俺に自分の目を見るように要求した。
「江口くんと真理ちゃんがうまくいったら、私も勇気をだそうって決めてるの」