目が覚めると小学五年生だった。
「いつも見てると分かんないかな。よく笑うようになって、ますます可愛くなって」
「俺に言われても」
「うかうかしてると他の男子に取られちゃうよってこと」
悲しいけれど、それはない、と断言できてしまう。
まず、俺のモノじゃない。彼女でも恋人でもない。だから、取られるという表現は間違っている。百歩譲って“取られた”という表現を使ったとしても、相手は“他の男子”ではないんだ。
「女子はみんな、江口くん応援してるからね」
「みん……な?」
向けられている視線に気付いて、周囲を見回す。
六人と目が合った。六人とも、目が合った瞬間に力強く頷いた。
周囲が先に盛り上がってしまった恋はうまくいかない。よく耳にするこのフレーズは、本当のことなんだなと思った。
俺は、成就することのない恋をしている。
思いを言葉にすることもない。ちゃんと付き合うこともない。どちらかの心が変わるまで一緒に歩むこともない。
好きなまま離れて、離されて、雪が解けるように、静かに消えてゆくだけの恋。
それでよかった。
……俺は、それでよかったんだよ。
十一月二十日。
金曜日。
「江口くんてさ?」
尾崎絵美がそう切り出したのは、『朝の会』が終わり朝の掃除へと移行する僅かな隙間の時間。今週の担当箇所であるトイレまでの移動中のことだ。
「うん?」
女の子はどうして何気ない言葉に震え上がるほどの迫力を宿すことができるのか。
男にやましいことがあるからだ、と人は言うが、やましいことのない人間など極一握りだけだろう。やましいことをそうだと自覚しているからやましいわけでだな。
などと言い訳してみるも、むなしい。
「沖田さんと仲良いよね」
あまりにも今更な質問。
しかし、昨日のうちに沖田真理から“嫉妬”というキーワードを聞かされていた俺にとっては、タイムリーな質問でもあった。
「ずっとクラスが一緒だからね」
質問の体を成していない尾崎絵美の言葉は、その通りに俺に対して質問したものではなかったのかもしれない。でもそれは俺の希望的観測であって、決して事実ではない。
尾崎絵美がどんな答えを求めていたのか、どんな答えを欲していたのか、それを分かっておきながら、答えをはぐらかした。
俺自身が、認めるわけにはいかなかったから。
「……それだけ?」
「それだけ」
「でも、“真理ちゃん”って下の名前で呼んでるよね」
直球が投げ込まれる。
「おかしい?」
直球には直球を返す。
この“キメ球”が用意されているのは分かっていた。
尾崎絵美も、普段は沖田真理を“真理ちゃん”と呼んでいる。にもかかわらず、さっき俺に質問したときは“沖田さん”だったから。
詰め寄る女と、はぐらかす男。
語尾に“なんでそんなこと言うの?”という疑問文を省略したやりとりが続く。これが小学生の会話でなければ、このあとはちょっとした修羅場に発展しただろう。
目的地のトイレが近づくにつれて、敢えて歩速を緩める。しかし決して立ち止まりはしない。
今の“キメ球”以上に踏み込んでくることはない。あと一歩でも踏み込めば、本心を曝け出してしまうことになるから。
これ以上は踏み込こまれないと分かっていたから、いくらでも話に付き合うことができた。
話を聞く気はある。向かい合って受け答えしている。
そういう素振りを見せておきながら、その実すべてを受け流して。
三十一歳になった俺は、こんなことにばかり長けてしまった。
掃除が終わったあと、尾崎絵美はいつもの尾崎絵美だった。
胸が、苦しかった。
理由は分かっているけれど、それでも俺は認めてしまうわけにはいかなかった。
十一月二十一日。
土曜日。
朝から暖かい日だった。
何とは無しに、いいことがありそうな、そんな予感がする朝だった。
下足箱の前で、尾崎絵美が待っていた。
俺を見つけると、笑顔を向けて小さく手を振ってきた。
嬉しかった。
でも怖かった。
「江口くん。今日ね、学校終わってからちょっといいかな?」
「え? うん、いいけど」
「じゃあ、非常階段の一番上で、ね」
非常階段は、その名の通りに非常時の避難経路として校舎の外側に用意されている階段だ。そして、屋上へと通じる唯一の経路でもある。
屋上は柵で囲われていて、勿論施錠もされているから、誰も入ることはできない。
だから、誰も近寄らない。
多少声を荒げても、泣いて喚いても、誰にも聞こえない。
「……分かった」
「忘れないでね」
ほんのりと微笑む尾崎絵美は、嬉しそうにも悲しそうにも見えた。
どちらが真実で、どちらが俺の願望なのか。すぐに考えることを放棄した。
今ここで答えを出すことに意味はないから。
俺自身、喜ぶべきなのかどうかも含めて、全部。
「じゃ、先に行くね」
尾崎絵美は返事待たずに立ち去った。
足早でもなく、遅速でもなく、普段通りの歩調で。
それに比べ、俺の足取りは重たかった。
「おはよ、江口くん」
「おはよう、尾崎さん」
クラスメイトにおはようと挨拶をして、その流れのままに、隣の席の尾崎絵美とも普通に普通のおはようを交わす。
今ここで初めて顔を合わせたように。昇降口での会話などなかったかのように。
それから、授業が終わり『帰りの会』が終わるまで、特に何事もなかった。極々普通の土曜日だった。けれど、とても長い一日だった。
すでに無人となった隣の席に、ゆっくりと、ゆっくりと視線を向ける。
尾崎絵美が、先に行ってるね、と席を離れたのは、ほんの数分前の出来事だ。
そんなたった一言で金縛りに掛かってしまった俺は、首を横に向けるという単純な行動を起こすためだけに、数分間をまるまる費やさねばならなかったということだ。
果たして尾崎絵美は、さっきの言葉を俺に対して言ったのだろうか。
この期に及んで逃げようとしているのだ。三十一歳の俺は。
尾崎絵美が何を話そうとしているのかは分からないが、その内容如何によっては、都合の良い解釈で都合の良い妄想だ、と向き合おうとしてこなかった現実を知ることになる。
怖い。勿論、期待もある。けれど、怖い。
屋上へと続く階段を、強い風が吹く度に足を止めてしまいそうになりながら、一段、また一段と進む。
期待よりも幾分大きな恐れが、重い足取りを更に重たいものにしている。
期待のほうが大きければ、怖さなど感じずに済んだものを。
こうした自己分析は、最後の現実逃避。
次の折り返しを越えれば、そこは屋上への入口。視線の先には空だけがある。
薄い雲が掛かった青白い冬の空。特に思い出せることはない。だからこれからは、今日のことを想うようになるのだろう。
「おまたせー」
何でもないことなんだと言い聞かせるように、軽薄な声と表情で。
「江口くん!?」
「え……」
踏み込んだ決戦の地にいたのは、尾崎絵美ではなく沖田真理だった。
どうしてと問う俺に、沖田真理は尾崎絵美に呼ばれたと答えた。
同じ理由でここに来たことを告げると、沖田真理は三人で話すつもりだとでも思ったのか、一緒に尾崎絵美の訪れを待とうと言い出した。
作品名:目が覚めると小学五年生だった。 作家名:村崎右近