目が覚めると小学五年生だった。
水が冷たそうだ、なんて考えるのは中年の証だ。
「おはよ、江口くん」
鶏小屋の前。
衝撃的な光景に、口を閉じることも忘れて立ち竦む。
「うちのクラスさ、飼育委員は江口くん一人じゃない?」
クラスの人数が足りないため、男女を揃える必要がない飼育委員は俺一人。
動揺を隠すために、一瞬で心を遠くへ投げ飛ばす。
「それで……ね、いつも一人で大変だろうなって」
他のクラスは二人だから、一人が水桶を洗っている間に小屋内の掃除が終わる。
興奮を鎮めるために因数分解をする気持ちに近い。
「ドリル貸してくれたお礼に」
一週間前の日曜、宿題だった計算ドリルを貸した。
主観を交えず、客観的に見える事実だけを現状として受け入れる。
「私でよければ」
寒さを堪えてはにかむ美少女。
ずっと一緒にいたいと願う尾崎絵美が、そこにいる。
「手伝うよ」
こんなありえない状況に直面してしまったら、喜びを隠し切れない。
心が戻ってくる。
顔がにやけてしまう。下心が表に出てしまう。下心と言っても、決していやらしい方面のものではなくてだな。
「ダメ…かな?」
尾崎絵美は、胸の前で手を合わせた。
懇願を意味するものではなく、無意識の行動だったと思う。そうでなければ大失策だ。
尾崎絵美の指を見た。寒さで赤く腫れた指を。
「ダメだ」
尾崎絵美は、暖かい秋の日の装いをしていた。冬を感じさせる一日である今日には、明らかに薄着だ。
赤い頬。それとは対照的に青い唇。十五分やそこらではこうはならない。それ以上の時間、尾崎絵美はここにいたんだ。ここで俺を待っていたんだ。
嬉しさなんか消し飛んだ。
「……え?」
何でそんなことをするんだ、風邪でもひいたらどうするんだ、のどまで出かかった言葉を何とか飲み込む。
「服が汚れるし、水に濡れるし、それに……」
そう言っているつもりだった。
「江口くん!? ちょ…ちょっと」
気付けば、尾崎絵美の腕を掴んでいた。
有無を言わさず、手を引いて歩いていた。
「ごめんなさい。僕が集合時間を間違えてしまって、寒いところで待たせてしまったんです。少しの間、暖をとらせていただけないでしょうか?」
次に気が付けば、そう言って頭を下げていた。相手は事務室の事務員。
事務員は、今日は寒いからね、と快く受け入れてくれた。それだけ、尾崎絵美が寒さにやられていることは一目瞭然だったということだ。
「邪魔…しちゃったね…」
そう言ってからは、俯いたまま黙りこくってしまった。
お湯で湿らせたタオルを手に掛けてやると、ほぅ、と吐息を漏らした。
その吐息はとても扇情的で、相手は小学生だぞ、と自分を諌めなければならなかった。
窮地を脱した瞬間に見せる安堵の表情。それは緊張から開放された証拠であり、心を許せる場所であり、相手である。
そういう誤解を与える。相手にも、自分にも。
だから、そうじゃないんだ、と何度も自分に言い聞かせた。
「しっかり温まってね」
尾崎絵美を事務室に残し、鶏小屋へ向かった。
違う。逃げたんだ。
気持ち悪かった。
思考と行動とが繋がっていない感覚。
考える前に身体が動き、思ってもいないことを口にしてしまう。
本当はこうしたかったのに、本当はこう言いたかったのに。一人になったあと、激しい後悔に包まれる。
それから一時間かけて大掃除を行ったが、尾崎絵美は戻ってこなかった。
十一月十六日。
月曜日。
「昨日はゴメンね」
それは、おはようを言うよりも早く。
尾崎絵美は教室の入口で俺を待っていた。
「気にしないで。僕も反省してる」
「江口くんならそう言ってくれると思ってたけど、ほんとにそのまんま」
クスクスと笑っているけれど、どこか悲しげで。
そんな尾崎絵美の笑顔に心を切り裂かれる。
「朝からアツアツだなー」
クラスの男子による冷やかしの声。
こういうものは無視するのが一番だと三十一歳の俺は知っている。反論すれば相手の思うツボ。だから、一切反応しない。
「期待は裏切らないことにしてるから」
痛みは俺を冷静にしてくれた。
「じゃあいっぱい期待しちゃうよ?」
痛むからこそ、自然に振舞えた。
「期待してるのはこっち」
「え?」
「来週も手伝ってくれるんだよね?」
「…ぁ……うん」
「約束したからね」
「うん」
「それと」
「なあに?」
「おはよう」
「うん。おはよ、江口くん」
こうして、俺はまた流されていく。
とっくに気付いている大事なことから目を逸らして。
十一月十九日。
木曜日。
雨が降った。
月曜から持ち直していた気温も再び下がった。
そんな寒さよりも、来週に迫った誕生会のことが気になっていた。
二十六日には、尾崎絵美が不登校になった原因と思われる誕生会がある。俺はその司会進行役で、良かれと思って不用意な質問をしてしまって。
泣きじゃくる尾崎絵美の姿。今なら鮮明に思い出せる。思い出したいのはその場面ではなくて、直前に俺が言ったであろう失言のほうなのに。
……俺、何を聞いてしまったんだろうか。
「なんか元気ないね」
「ん」
返事が素っ気ないのは、話し掛けてきたのが尾崎絵美ではなく沖田真理だったからだ。
トイレ掃除が終わって教室に戻ってきたところを捉まった。
「相談乗るよ〜?」
「ありがと、沖田さん。でも大丈夫」
「なに? いつも真理ちゃんて呼んでたのに」
二十年前のクラスメイトをどう呼んでいたかなんて、覚えているはずもなく。
「え? あ、えっとそれは」
「はっはーん。絵美ちゃんだ?」
「はい?」
「そうよねー、名前で呼んでると誤解されちゃうもんね。絵美ちゃんって呼んであげたらいいのに」
「俺たちはそういう関係じゃないから」
言った直後、墓穴掘ったことに気付く。
「ん? そういう関係ってどういう関係かなー?」
「だーかーらー」
「冗談よ、冗談」
「頼むよ」
「やっぱり何も言ってこない」
「ん?」
「なんでもないって言いたいけど、あいつよ」
「……あぁ、あいつか」
なるべく意識の中には入れないようにしていたけれど、こうして匂わされただけですぐに察しがついてしまうあたり、俺自身も相応に腹に据え兼ねていたのだろう。
山下勇樹。掃除をサボる男子。
「女子のみんなで話してたの。江口くんを目の敵にしてるなーって」
確かにそうだった。事ある毎に突っかかってくる。
「で、理由を考えてみたの」
この先の展開は想像に易い。女の子はそういう噂話が大好きだから。
「明らかに嫉妬だよね」
デスヨネ。
思い出した。というより、考えないようにしてた。
男女の恋愛に興味を持つ男衆のほとんどが、尾崎絵美のことを意識していた。山下勇樹もその一人だが、俺自身はその中には含まれていない。
二十年前の俺は、恋愛事情に疎いお子様だった。男と女の違いを意識することはあっても、恋愛感情のようなものはまだ持ち合わせていなかったんだ。
山下勇樹が行う俺への攻撃は、二十年前もあった。
ただ俺は、女の子を女の子だと意識していなかったからこそ、親しげに接することができていたわけで。
「絵美ちゃん、最近可愛くなったと思わない?」
「いきなり何さ」
作品名:目が覚めると小学五年生だった。 作家名:村崎右近