目が覚めると小学五年生だった。
顔を見られるのが嫌だった。気持ちを知られてしまうのが怖かった。
「じゃあこれ。明日学校で返してくれればいいからね」
別れ際、手を振る尾崎絵美と一瞬だけ目が合った。
背中が見えなくなるまで見送ってから、すぐに頭を抱えた。
……だめだ、もう会いたい。
十一月九日。
月曜日。
クラスメイトにおはようと挨拶をして、その流れのままに、隣の席の尾崎絵美にもおはようと言う。
彼女だけのために、先週よりももっと特別になった「おはよう」を言う。
隣の席である以上はどうしても顔を合わせる。ジタバタしても仕方がない、と開き直るには申し分ない条件だった。
これで席が離れていたりしたら、きっとドツボに嵌まっていただろうな。
「ドリル、ありがとね」
俺の耳にだけ届く、小さな声。世界で俺だけが手にできた宝物。
俺だけの、宝物。
チャイムが鳴り、教師が入室する。
「きりーつ、れーい、ちゃくせーき」
日直の号令にやる気は感じられない。
正直、というか当たり前の話だが、授業は至極つまらない。
内容がどうこうという問題ではなくて、授業がヘタクソだった。小学生向けの授業とはこういうものなのかもしれない、と前向きに受け取るも、達観していると眠くなってしまう。頬杖をつくと怒るので、姿勢を正して熱心に耳を傾けている振りをする。
この担任教師は、“叱る”ではなく“怒る”教師だった。
……やめよう。思い返すとハラワタが煮えくり返る。
授業がヘタクソな分を差し引いたとしても、反対に、好奇心や知的探究心を刺激する極上の授業であったとしても、俺は興味を持たない。
二十年前とはいえ、一度は学習したことだからとか、家にいる間は現実逃避のために勉強しているからとか、そういう理由でもない。
俺は、隣の尾崎絵美を盗み見ることに一生懸命なのだから。
給食の時間。
食パン二枚にマーガリン。わかめとたまごのスープ。そして牛乳。
トーストされていない食パンに、十一月の低い気温でカチコチになっているマーガリンを塗るのは至難の業。マーガリンに悪戦苦闘している間にスープが冷める。スープは冷めると食べられたものじゃない。
この献立の攻略法なら覚えている。
スープの器に密着させて、マーガリンを溶かす。パンに塗れる程度に柔らかくなるのを確認して、スープを掻き込む。
スープは一気に掻き込まなければならない。
マーガリンを塗っている間に冷めてしまえば食べられたものじゃなくなるし、食べている間もマーガリンを温めていれば溶けすぎてしまい、離していれば再凝固してしまうからだ。
「炊き込みご飯、美味しかった?」
「うん。美味しかったあ!」
尾崎絵美は、屈託なく笑った。
「すっごく簡単に作れるんだね! びっくりしちゃった。今度ね、作り方を教え……」
俺も、ご馳走さま、だ。
十一月十日。
火曜日。
『朝の会』が終わり、朝の掃除が始まる。
机を運び、掃き掃除をして、雑巾掛けをし、また机を運ぶ。
「男子もちゃんと掃除してよ」
「やってまーす」
「やってないから言ってんの!」
掃除をサボる男子と、それを注意する女子。
録画を見ているような、変わらない光景。
さすがに五回目ともなれば、それを見て感慨に耽ることもないわけで。
「今日はイチャつかねーんだなー」
班毎に役割が決められていて、箒係に雑巾係、机運び係と分かれている。
昨日から箒係。箒係は花形ポジションだった。その理由は“楽だから”なんだろうが。
「何か言い返したら?」
集め終えた塵をゴミ箱へ移している俺に、そっと囁く声があった。
沖田真理。彼女が、掃除をサボる男子を注意する女子だ。
男勝りといえば男勝り。でも俺は、繊細で優しい女の子だってことを知っている。
一年生からずっと同じクラスだった上に、出席番号の関係でいつも席が近くなり、いつのまにか仲良くなっていた。
中学二年生まで同じクラスだったが、学校の外で会うことも話すこともなく、本当に仲の良いクラスメイトでしかなかった。
「俺に言ってたのか」
「エ……」
「ん?」
「なんでもない」
「そか」
同級生の中で、二十年後にやっていることが分かるのは、この沖田真理だけだ。
二十年後の沖田真理は、少女漫画家をやっている。
売り上げ部数こそ業界トップではないが、誰もが一度は耳にしたことがある月刊誌に連載を持っていて、その中でも上から数えたほうが早い位置にいる人気作家。
上司に連れられて行った飲み屋でばったり再会し、それからはメールで時候の挨拶だけを交わすような間柄だ。
……だった、のほうがいいかもしれない。
俺は出世とは無縁の冴えない安月給サラリーマンだったから、同級生と比べられてしまうことを恐れて連絡をとらなかったんだ。
同窓会にも行かなかった。他の同級生が何をしているのか、知る由もない。
だから、俺は知らない。尾崎絵美の二十年後を。
十一月十二日。
木曜日。
小学生に戻って七日目。
小学生の身体にも慣れた。
相変わらず目が覚めたらテレビのリモコンを探してしまうし、起き出したら起き出したで熱いコーヒーを求めてしまう。
ただ、母が作ってくれる朝ご飯は、あらゆる不安を打ち払った上に、この不可思議な現状を肯定させてもくれた。
戻ってくることができて本当に良かった。そう思わせてくれた。
……俺、マザコンじゃないと思ってたんだけどな。
十一月十四日。
土曜日。
十一月の第二土曜である今日は、学校は休みとなる。
兄貴は朝七時からゲームを始めている。
俺は机に向かい、計算ドリルの頁を先に進めている。
この一週間、家で過ごす時間の内で食事や風呂やトイレ以外はずっとこの形だ。受験生かってぐらい勉強している。
「最近、勉強ばっかりしてるな」
兄貴が心配するのも分かる。
何かしていないと、尾崎絵美に会いたい、声を聞きたい、そんな気持ちでいっぱいになって、息が詰まって胸が苦しくなる。
計算ドリルも残すところあと数頁。今日中に終わる。終わってしまう。
計算ドリルが終わるということは、現実逃避の材料が尽きてしまうということ。その先に待っているのは、会いたくて会いたくて震える毎日だ。
……この時代の連中には通じないんだろうな。
十一月十五日。
日曜日。
午前九時。
鶏小屋の鍵を借りるために職員室まで事務員に付き添ってもらう。
「今日は大掃除をするつもりですので、一時間ぐらい掛かると思います。それ以上長引く場合は――」
今日の大掃除の理由は、単なる時間潰し。
日曜日という孤独な時間をやり過ごす方法の一つ。
思わず仕事口調になっていた俺に対して、事務員は苦い笑いを浮かべていた。大人ぶった子だな、とでも考えていたのだろうか。
だが残念だったな。俺は子供ぶった中年だ。そしてその中身はガキだ。
自分の感情を制御できずにいる。青いガキなんだ。
空は快晴。しかし風は冷たい。
シベリア寒気団の影響で、昨日に比べて気温がぐっと下がっている。気温が上がるのは早くても二時間後。ただでさえ寒いのに、太陽の角度が上がらない冬の間は、鶏小屋の周囲は終日日陰になる。
作品名:目が覚めると小学五年生だった。 作家名:村崎右近