目が覚めると小学五年生だった。
水桶を洗い、新しい水を注ぎ、餌受けに残っている古い飼料を取り除き、新しい飼料を入れる。鶏たちが餌場に群がっている間に、糞を掻き出し、小屋内のゴミを集める。
やる気を削ぐ原因は、鶏小屋の鍵を借りるために職員室まで事務員に付き添ってもらわなければならないことだ。日曜でさえなければ、五分で終わる。
担当する曜日は、三ヶ月毎に変わる。
決定方法はクジによる抽選だが、日曜を担当したことがあれば、日曜を抜いた状態のクジを先に引くことができる。
十月から日曜日の朝を担当してきた俺は、年が明ければ日曜の担当から外れる。
年が明ければ……か。
来年の俺は、どれぐらい落ち込むだろうか。
数ある恋の一つだと割り切って、すぐに立ち直るのだろうか。
これは初恋になるのかな?
つい先日まで三十一歳だった俺だ。当然、その間に恋の経験があるけれど。
そうやって自分を茶化してもみても、胸の苦しさは治まらない。
恋しちゃってるな、と漏らした自分のため息の甘さには、ため息を重ねるしかない。
「始めるか」
南京錠に鍵を差し込んだところで、背後に立つ気配を感じた。
確信的な直感が、俺の手を止め、身体を振り向かせる。
「おはよ、江口くん」
「尾崎絵美!?」
家を出る前に、記憶を辿った。
鶏小屋の掃除中に、尾崎絵美と会話したことがあったかどうかを。
小屋の前に立ったときにも同じように記憶を辿ったが、尾崎絵美に会ったという記憶はなかった。
飼育委員であったことも忘れていたのだから、記憶の信頼度は低い。
運命がどうとか、そういうことは分からない。
けれど、過去が、未来が、変化を始めているのではないかと思わせるに足る、衝撃的な出来事だった。
俺の知らない未来を歩むことができる。
未来を、過去を、変えることができる。
そう確信できる出来事だった。
「どうしたの?」
「あ、いや。おはよう」
「江口くん飼育委員だったね」
「そうだよ」
「日曜日なのに大変だね」
「大変だよ」
なぜ素っ気なく振舞っているのか、自分でも分からない。
いや。会えて嬉しいという気持ちを知られてはいけない、そう思っていたんだ。
つくづく思う。
素直になれないってのは、愚かなことだなって。
相手も自分も傷つけてしまう。
素直になるってのは、難しいことだなって。
「えっと……」
それでも、尾崎絵美は立ち去ろうとしなかった。
「尾崎さんこそどうしたの? 日曜なのに」
「え、わたしは…その、宿題を教室に忘れちゃって」
日曜は、各教室も施錠されている。教室に入るには、事務室の事務員さんに付き添ってもらうしかない。
飼育委員という大義名分がある俺でも気後れしてしまうのだから、内気で弱気な尾崎絵美には相当に高いハードルだろう。
「僕のを貸すよ」
余計なことは言わない。
俺がどうしたいか、それを尾崎絵美が受け入れるか。
他には何もいらない。
「でも」
「朝のうちに終わらせてあるし、月曜に返してくれたらいいし」
うっかり忘れ物してしまって、宿題ができなくて。
教室に取り行くには、ハードルが高くて。
そこに、たまたま、隣の席の俺がいた。
あわよくば、宿題のドリルを貸してもらえないかと話し掛けてみたものの、貸して欲しいとは言い出せなかった。
立ち去ろうとしなかったのは、俺と話していたかったからなんて理由じゃない。
俺がやるべきことは、尾崎絵美が目的を達成できるように尽力することだ。
余計な詮索をせずに。
都合のいい解釈などせずに。
「家から持ってくる。待ってて」
そうだったらいいと思う正反対を考えて。
そんなことを考えている自分が醜く思えて。
あんなに会いたかったのに、目の前にいられなくなって。
これ以上好きになってしまったら、俺はもう立ち直れない。その先に長い人生があると分かっていても、実際に経験していても、それでも本気で思う。
これ以上好きになってしまったら、俺はもう立ち直れない。
走りながら、こんな寒い場所に一人で待たせるなんて、と後悔する。
後悔したものの、走り出した足は止まらない。
「江口くん! 待って!」
自分では止められなかった足は、尾崎絵美のたった一言で、こんなにも簡単に止まってしまう。
情けない。
拳に力が篭る。
十一歳の女の子に背中を追わせる自分。可能ならぶん殴ってやりたい。
でもその前に、「どうしたの?」という不思議顔を作って振り向く必要がある。
「どうしたの?」
それは俺の声ではなくて。
「わたし、怒らせるようなこと言っちゃったかな?」
そんなことないよ。そう言いたいのに、声にならなくて。
「なんだか辛そうだったから」
情けない。情けない。
全部上手を取られて、先手を取られて、それでも嘘を上塗りしようと口を開く俺。
「バレた? 実はちょっとお腹痛くてさ」
どうしてこうなる? どうしてこうなる?
顔を見れない。心臓が口から飛び出しそう。
「わざわざ歩かせるのはどうかなと思ったから、待っててって言ったんだけどさ。もうすぐそこだし、どうせだから取りに来て」
これも嘘。
二十年で得たのは、嘘を吐くスキルだけ。中途半端な、自分自身も騙せやしない嘘。
素っ気ない振りをしながら、でも恐る恐る、ゆっくりと歩き始める。
彼女が横に並べるように、追いついてしまうように、ゆっくりと。
「鶏の世話って、大変?」
「大変だけど、大事な仕事だよ。例えばね、お母さんがご飯を作ってくれなかったら、どうする?」
「自分では作れないから、お菓子とか買いに行くかな。でも、料理の練習して自分で作れるようにする」
「料理をするには材料が必要だよね。材料を用意するにはお金がいる。でも、小学生はお金を稼げない。新聞配達じゃ、とても足りない。いや、そうじゃないや。お母さんがご飯を作ってくれなくて、しかも部屋から一歩も外に出してくれない。そんな状況だったら、どうする?」
「え……っと」
「ごめんね、想像できないよね。でもあの鶏は、そういう状態なんだよ。外に出ることはできない。自分で食事を用意することもできない。のどが渇いても、自力で水を用意できない。だから、ちゃんとやらないといけないんだ。大変だけど大事な仕事。命を預かっているんだよ」
事件は、翌年に起こる。
四月から完全週休二日制になり、土曜と日曜が休みになった。
そして、土曜の担当と日曜の担当が世話を怠り、鶏の半数が死んだ。
月曜の朝が担当だった俺は、その小屋に一人で足を踏み入れた。
生命の何たるかさえもよく分かっていない小学五年生が、いきなり“死”を見せ付けられたんだ。
あれは恐怖だった。正体不明で、立ち向かうどころか、逃げる方法も分からない。
飼育委員の顧問教師は「あなたたち飼育委員全員の責任です」と繰り返し、ただただ責任を追及するだけで、責任の取り方を教えてはくれなかった。
月曜の担当だった俺に、何ができたって言うんだ。
先生、次は教えてくれるのかい?
「それは……責任重大だね」
尾崎絵美は、ぽつりとそう呟いて、口を閉ざした。
結局、計算ドリルを渡して別れるまで、一度も顔を見ることができなかった。
作品名:目が覚めると小学五年生だった。 作家名:村崎右近