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目が覚めると小学五年生だった。

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 十一月六日。
 金曜日。
 クラスメイトにおはようと挨拶をして、その流れのままに、隣の席の尾崎絵美にもおはようと言う。
 彼女だけのために、特別な「おはよう」を言う。
 二度目の人生の生き方は、まだ何にも決まっていない。
 なら、難しいことは考えず、ただひたすらに小学五年生でいよう。
 それが、一晩考えた末の結論。
 問題を先送りにするという選択。
 でも違う。二十年後の俺のように、流されて生きるのとは違う。
 先送りにするのは、尾崎絵美が俺の前からいなくなってしまうまでだ。
 だから今は、好きという気持ちにだけ従う。年が明けて、もう二度と会うことはできないという現実を突きつけられるまでは。
 二十年前、俺は尾崎絵美を泣かせ、謝ることも償うこともなく、あまつさえ覚えてもいなかった。
 これから、本当に二回目の人生を送れるのなら、俺の知っている人生とは違う道を歩めるのなら、過去を、未来を変えられるはずだ。

 十一月七日。
 土曜日。
 平成四年十一月は、まだ完全週休二日になっていない。
 九月に第二土曜日が休みとなり、翌四月から完全週休二日制へと段階移行する。
 そんなことを完全に忘れていた俺は、危うく遅刻するところだった。
 土曜は休みのつもりでいた、と本音を漏らしてしまった俺に、休みは第二土曜だけよ、と母は呆れ気味だった。
 土曜の授業は三時間目まで。十二時を迎える前に放課となる。
「今日ね、お母さんが炊き込みご飯を作ってくれるの」
 すべての授業が終わったあとの掃除中、尾崎絵美は唐突にそう言ってきた。
 正確には唐突なんかではなくて、おはようと挨拶を交わした瞬間から、言おう言おうとする気配をびんびん感じていた。
 俺も変に身構えてしまったものだから、尾崎絵美は大変な勇気を要しただろう。
 十一歳に負担かけてどうすんだって自分を責めながら、取り繕おうとする感情を振り落としながら、ただ素直であるように努めた。
「ほんと?」
「うん。でも、ひじきじゃなくて――」
 何気ない会話で心が躍る。
 正直、炊き込みご飯に興味はない。
 炊き込みご飯が美味しいのは認める。見た目の華やかさ、口に運び入れた際の風味、熱気ととも鼻腔へと抜ける芳香。栄養価も高く、複数の栄養を手軽に美味しく摂取でき、作るのも難しくない。優れた料理だと思う。
 けれど、そんなことはどうでもよくて。
 尾崎絵美の口から出る言葉が、俺へと向けられていることが嬉しくて。
 そして俺は、その先を求めてしまった。その先を望んでしまった。
 年が明けたら彼女はいない。
 尾崎絵美も、その両親でさえも、まだ知らないことかもしれない。
 今この瞬間で、そのことを知っているのは俺一人だけかもしれない。
 それはつまり、もうすぐ訪れるであろう終わりの瞬間を、把握して、受け入れて、覚悟しているのは俺のほうだけってことで。
 彼女は、尾崎絵美は、そのときどうするのだろうか。どうなるのだろうか。
 離れたくないと泣いてくれるのかな。悲しませてしまうのかな。
 ……俺、彼女にどう思われているんだろうか。

 十一月八日。
 日曜日。
 午前七時十五分。
 俺が目覚めたのを確認した兄貴は、「もう起きるか?」と一言確認を入れてから、上体を起こした。
 布団をたたみ、カーテンを開ける。
 窓から見える空には、雲一つない。
 日曜日。
 二十年前の俺は、どんな日曜を過ごしていただろう。
 二十年後の俺は、午前中ひたすら寝て、空腹に負けてコンビニに行って、洗濯機を回して、見えるところだけ綺麗にする掃除をやって、何をするわけでもなくごろごろと時間を潰して。
 日曜を楽しめているわけでもないのに、月曜が来なければいいのになんて考えたりして。
 今の俺は、月曜を待ち望んでいる。
 尾崎絵美のいない日曜なんか、楽しめるはずがない。
 会いたい。声を聞きたい。
 何でもない話をして、笑うでもなく、怒るでもなく、勿論泣いたりもしない。
 他には何もいらない。本気でそう思える。
 ただ心が温まる、そんな時間。
 早く月曜になれ。
 三十一歳の俺だったら、そんなこと考えたりしないだろうな。
「代わろうか?」
 背後から控えめに投げ込まれた、兄貴の声。
 時刻は午前八時を回った頃。
 俺が起きてからずっと机に突っ伏していたから、ゲームをやらせてもらえなくて拗ねているとでも思ったのだろう。
 二十年後を知る身としては、この時代の16ビットゲーム機を楽しもうという気持ちはあまり起きない。尤も、今の俺はそれどころじゃない。
「宿題やるの嫌だなーって思って現実逃避してた」
 宿題の計算ドリルと漢字ドリルをランドセルから引っ張り出す。
 計算ドリルを一頁三十問、漢字ドリルを一頁二十問。それが週末に課せられた宿題。
「そか」
 分からないところあったら教えてやろうか、とならないのは予想通り。兄貴は兄貴だったってことだ。
 宿題は難しくない。至極簡単な、単純反復作業。
 分からない問題が解けたときの喜びは、ただの一度しかない。その先にあるものは、ただただ繰り返される苦痛のみ。
 したがって、懐かしさという鎮痛剤を初日で使い果たしている俺にとっては、ただの苦痛でしかない。
 ただの苦痛でしかなくとも、その苦痛に飛び込むしか道はない。
 一問一分で三十分。三十秒だと十五分。十秒なら五分。
 さすがに一問十秒とはいかないが、三十秒までは必要としない。二十五問目から問題の難易度が目に見えて上がるけれど、それでも一問一分は掛からない。
 四頁で一時間。四十頁で十時間。食事と休憩を加えれば、今日が終わる。
 尾崎絵美のいない日曜が、終わってくれる。

 午前九時。
 母の一言が、俺の現実逃避を終わらせる。
「鶏の世話は?」
 完全に忘れ去っていたが、小学五年生の俺は飼育委員やっていた。
 学校が大量に飼育している鶏の世話を仰せつかっているのが飼育委員。
 五年生と六年生を合わせた八組で、月曜から土曜までは一組ずつ担当し、日曜は朝に一組、夕方に一組の計二組が担当する。
 俺の担当は、日曜日の朝。
 鶏小屋の鍵は職員室にあるが、日曜の朝は無人であることが多く、ただ訪れても施錠されてあって入ることができない。
 そのため、まずは職員室の鍵を開けることから始めなければならない。
 職員室の鍵は事務室にあるが、学校の生徒が職員室の鍵を借りられるはずはなく、事務員にわざわざ付き添ってもらうことになる。
 そんなに信用できねぇのかよって、何も盗りゃしねぇよって、毎回思っていた。
 今は違う。そんなことは思わない。何かあったときに、ほんの一握りの疑いさえも向けられないようにするためだってこと、分かっているから。
 でも、やっぱり面倒すぎる。
 飼育委員の担当教師が九時前に出て来ておけよ、それが無理だってのなら、鍵を事務室に預けておけよ、とは思う。
「終わったら私のところまで持ってきて。事務室にいるから」
「はい、ありがとうございました」
 交わす会話はこれだけ。
 俺はこの事務員の名前を知らないし、この事務員も俺の名前を知らないんだろう。
 鶏の世話はそれほど大変ではない。